「酒と日本民族」

 以下の文はある月刊誌にシリーズで掲載したものです。■の部は該当する漢字がない場合で、右カッコの中に読みが書いてあります。


[人は、日本人はどうやって酒を手に入れたか、その序論]

 それを飲んだ猿と人

 熟れて発酵した果実を、猿が食べて酩酊してしまい、ふらふらと歩く様子を写した記録映画がある。太古の時代、人も、果実のジュース、蜂蜜の液などが自然に発酵したものを偶然に飲むことがあったであろう。ただ猿と人との違いは、猿は再び酩酊を求めてそれを作ろうとはせず、人は酩酊を求めて「酒」を作ったことである。
 人は酒を作ることに成功すると、それを生活に利用し、他のあらゆる事と同様、その飲み物とそれにまつわる物事に言葉をつけ、それを作る技術を改良した。

 日本人と酒

 日本列島に住んでいた人々が、酒を初めて手に入れて飲んだのは、弥生時代の初期、稲作と共に、酒造りの技術が伝わってきてから、というのが一般的な考え方である。しかしこれは「日本酒は米から作られたもの」という思い込みかも知れない。
 縄文式土器には注口土器、双口土器の他、壺形、瓶形、徳利形、水差形、土瓶形、片口付鉢形、碗形、コップ形など、現代の酒器に似た土器が多い。また縄文時代中期以降に出現する「有孔鍔付土器」が酒造用だったとする説も出てきた。
 縄文時代において酒があったとすれば、果実酒ということになるが、『古事記』の中の応仁天皇記には、地方でエビカズラ(ヤマブドウ)、カジノキ、桑科の木の果実が酒造りに使われたという記録がある。素戔鳴尊(すさのおのみこと)が大蛇に飲ませた酒は、『古事記』では「八■酒(ヤシオリノサケ)」と書かれ、『日本書紀』では「汝、衆果(アマタノコノミ)を以て酒八瓶を醸すべし」と書かれ、日本でもこの頃まで果実酒を作っていた可能性がある。
 しかし稲作が日本に伝わり、米から酒が作られるようになると、それ以降、日本人は、米を糖化し、次いでアルコール化するという酒造りが、生産効率上良いことを知り、それを基本として技術改良を進め、縄文の酒はまぼろしとなった。酒造りと共に、飲酒にまつわる多くの技術が中国から日本に伝えられたと考えられる。

 日本人の先輩、中国人と酒

 中国における伝統的な酒造りの古くてまとまった本には、北宋時代(960〜1126)の『北山酒経』がある。しかし最近の考古学的な知見は、中国の伝承の歴史をもはるかにさかのぼる時代の酒造りを明らかにしつつある。また未開地に現在も伝わる民俗から、中国やアジアの酒造りとその利用法を推定する研究方法もある。『黄土に生まれた酒』、『東方アジアの酒に起源』などが最近出版された本である。また象形文字の解読もまだ進行中であり、中国文明の発祥の時代の、人間社会における酒の役割をうかがうことができる。古代中国人から現代日本人へと、連綿と伝わる飲酒の伝統と、現代日本における飲酒事情の急変、特にその弊害の拡大は、歴史的に観察することによってより鮮明に分かるのではないかと思う。




[古代中国人と酒について。今回は伝説の世界の話です。]

 最も古い中国の酒の伝説

 中国の酒の始祖といわれるのは「儀狄(ぎてき)」でありまして、禹の時代(約四千百年前)のことであります。この人は『戦国策』によりますと禹の娘とありますが、一説には身の丈九尺五寸、ひたい黄色で鼻曲り、頭ゆがみ、耳薄い男であったともいわれます。その儀狄がはじめて酒を造って、これを禹王に献上しました。禹は明君として後世まで有名な人ですが、いかに明君でもうまいものはうまいにきまっています。そこで「うむ、これは美味いものだ」と感心し、その酔い心地に陶然となりましたが、しかしさすがは禹で、酔いながらも、「後世、その甘美なるを貪り、これを飲むこと節ならずして、必ず国を亡ぼし家を敗る者あらん」といったといわれます。(参考:『酒おもしろ語典』板倉又吉著、大和出版、1986年)

 もっと古い話?

 『酒譜』(北宗の時代、1078年、裁判官であった竇苹(とうひょう)が書いた。中村喬編訳、平凡社、1991年)には、「『神農本草』に酒の性味について著されており『黄帝内経』にも酒が病を起こすことがいわれているから、神農・黄帝の時代にすでにあったもので、儀狄にはじまるものではない」とあります。
 注:『神農本草』は伝説上の三皇の一人炎帝神農氏に名を借りて、漢魏の間に成立した本草書(漢方薬の説明書)で、本草書の祖となったもの。「酒味は苦く甘く辛く、大熱にして毒有り」と書かれている。
 注:『黄帝内経』は、伝説上の五帝に名を借りて、秦の時代に成立した書。「今の人が若死にするのは、酒を漿のように飲んで、これに溺れているからだ」という意味のことが書かれている。

 杜氏(とうじ) について

 日本で酒造りをする人々を杜氏と呼ぶ。中国で酒造りを始めた人が杜康とその一族であったという説にもとずく。しかし『酒譜』には次のように書かれている。)ヽヽヽまた、儀狄ではなく、杜康である、という者もいる。魏の武帝の楽府にも、「何をもって憂いを消(と)かん、惟だ杜康あるのみ」とある。ヽヽヽ杜という氏があらわれたのは周の宣王以後のことであり、酒の祖といえるほど、古いものではない。むしろ杜康は酒造りが上手かったので、世に名を得た人ではなかったか。ヽヽヽ

 先輩中国人が驚いた古代日本人の酒の飲み方

 日本人の酒の飲み方を記述した最も古いものは、陳寿著『三国誌』の『魏書』の『東夷伝』です。A.C.300年頃、日本の弥生時代の後半に当たります。お葬式にも酒を飲む、酒を飲めば無礼講になる──などと書かれています。酒好きの先輩中国人が、すでにこの時代の日本人の酒の飲み方に驚いたのですから、お手上げです。




[古代中国において、酒は何に利用されたのでしょうか。]

 考古学的に推定されている中国最古の酒造

 中国の新石器時代の遺跡でもっとも古い遺跡は、黄河上流域にあり、農耕(粟・アワ)と牧畜(豚の家畜化)がみられる。その半坡遺跡(BC4800〜4300年)で出土した彩陶土器である「小口尖底甕」が酒造用具ではないかという説がある。
 黄河下流域に、殷王朝(BC1500 〜1027年)が出現する以前、農耕と黒陶を特徴とする竜山文化があった。BC2400〜2000年の遺跡で、酒器とみられる土器が多く出土し、動物の肩甲骨を用いる卜占(ぼくせん)が行われていた。この竜山文化に先立つ大口文化(BC4300〜2400年)の遺跡からも酒器が出土している。漢民族はアワを栽培し、貯蔵したので、それがしめって発芽したりカビたりして酒ができたと考えられている。(『黄土に生まれた酒』[花井四郎著,東方書店,1992]より要約。)

 象形文字の発明とその用途

 漢字は中国で殷の時代に発明された象形文字が簡略化されたもので、象形文字のそのまた起源は、土器の表面に描かれた模様であると考えられている。象形文字は単なる絵文字ではない。はじめに言葉があり、文字は発音を伴って概念の伝達手段となる。象形文字は、形を単純化したものから、意符と声符(発音)の2部分から構成されるようになり、ついで声符が「形のない」代名詞、副詞、助詞に応用されて文字体系が作られていった。そしてもっぱら神の意思を問う卜占に必要なものとして発達した。

 古代中国における祭祀と占い、飲酒

 古代にかぎらず、未来を知ることができない我々人間は、生殺与奪をハイアー・パワー、すなわち神に握られていると感じる。狩猟民は動物を解体したり食べたりする時に、内蔵の色や骨の割れ具合を、神の意思のあらわれと考えたという。古代のあらゆる民族に多彩な占いがあり、占いは酒の利用よりはるかに古い。
 階級社会の起源において、そのトップはシャーマンで、その主たる仕事は神の予言を得ることにあった。シャーマンは神がかりをするために、「常識を越えた精神状態」になる必要があり、酒が利用された。「お告げ」は文字による必要はなく、殷王朝で骨や亀の甲羅に文字が使われたのは、占いの内容が複雑化し、多くの人々にその結果を示す必要が生じたためであろう。殷の時代、すでに王はシャーマンから分離し、命令を権威づけるため卜占儀式が利用された。そして酒はそこに参加する人々へ配られ、集団の一体感をもたらすものとして利用された。
 祭祀における占い、飲酒は人々の未来への不安を一時的にしろ解消する役割をはたした。現代日本でも、占いはおみくじや手相見として残り、さらに賭け事に発展し、飲酒とともに、これらは人々の不安を一時的にしろ解消している。



[仏教が伝わる前の中国における酒の飲まれ方は?]

 酒池肉林 (しゅちにくりん)──王が酒と女性に溺れて、王朝が滅びた。

 中国の古代史上、暴君の代表は夏の桀王(けつおう)、殷の紂王(ちゅうおう)である。この二人が「酒池肉林」を実演した。桀は末喜(まっき)という女性の言うとおりになり、民財をしぼりあげて豪遊。酒の池に裸の男女三千人を入れ、太鼓の合図で酒を飲ませ、野合させたと伝えられ、遂に桀は殷の湯王(とうおう)に亡ぼされてしまった。
 殷の最後の王が紂。これがまた姐妃(だっき)という女性に打ちこみ、例によって税金をとりたてて贅沢三昧。またもや酒池肉林で「長夜の宴」を張り、数々の乱暴な政治を行ったので、周の武王に亡ばされた。姐妃は「傾城の美女」と言われ、「殷鑑遠からず」とは「紂の先例は桀にある」、つまり「いましめは案外手近なところにある」という、酒と女性に溺れた王たちの物語からきたことわざである。

 『六韜・三略(りくとう・さんりゃく)』──酒を利用した人物判定法のオリジナル

 この書は周の文王、武王と軍師・太公望との問答形式で書かれた兵法書。武王の父が文王で、彼は卜占どうり、釣りをしていた太公望に会い、彼をスカウトした。魚が採れなくても悠々として釣りを楽しむ人を太公望というのはこの時の故事による。
 この書の中に「選将」という章があり、文王が太公望に軍の統率者の人選法を質問し、太公望は以下のように答えた。
 「言葉によって諮問して、その回答の言葉から観察し、言論によって追求して、その応変の程度から観察し、スパイをつけて、誠実であるかどうかを観察し、真正面からはっきりと質問して、その人徳を観察し、財貨をつかさどる職につけてみて、清廉であるかどうかを観察し、女色によって試みてみて、その貞操があるかどうかを観察し、最後に、酒に酔わせてみて、その態度を観察します。この八つの兆候によって観察しますと、その人物が賢者であるか不肖者であるかがはっきり見分けられます。」(『六韜・三略』岡田脩、萩庭勇著、昭和54年、明徳出版社より要約。)

 中国文明の基層をなす儒教は酒をどう考えたか?

 周の時代に続く、春秋、戦国、秦、前漢の時代に、多くの思想家がでて、儒教とよばれる家族道徳、政治理論の体系を作った。儒教の儀礼の背景にある祖先祭祀や招魂再生の思想は、殷の時代からのシャーマニズムを受け継いでいる。儒教の創始者である孔子は酒を好み、自己の飲酒について「酒は量無きも乱に及ばず」と言った。つまり、飲む量はいくら多くても乱れなければよい、というのが孔子(儒教)の考え方であった。
 さて、インドからシルクロードをつうじて、不飲酒戒(ふおんじゅかい)をもつ仏教が中国に伝わってくる。仏教のめざましい興隆によって、中国から酒は影をひそめるのであろうか。





[仏教の戒律とは、不飲酒戒とは、どのようなことでしょうか?]

 釈迦と仏教

 釈迦は紀元前 563年(頃)、ネパールに近いインドで、地方豪族の家に生まれた。ガンジス河の上中流域の一帯には、その千年ほど前から、バラモン(僧侶)を至上とする世襲のカースト(階級)社会があった。釈迦はなに不自由ない生活をしていたが、王城から三回外出して、老人、病人、死人を見て、苦悩に直面した。29才で妻子と別れて出家し、6年間の修業ののちに、仏陀(目覚めた者)となったという。そして80才で死ぬまで、説法を行って各地を歩いた。
 仏教では苦悩を超越する方法として、戒律(宗教的規範)、禅定(宗教的瞑想)からなる修行を続け、宗教的叡智──原語の音韻を模して漢語で般若(ハンニャ)という。悟り、解脱ともいう。──を獲得すれば、永遠のやすらぎと、輪廻の束縛から脱却できると説いた。

 仏教における五戒

 釈迦は在家信者に次のような五戒を定めた。1)不殺生戒(ふせっしょうかい)、2)不妄語戒(ふもうごかい)、3)不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、4)不邪淫戒(ふじゃいんかい)、5)不飲酒戒(ふおんじゅかい)である。また出家信者には、他に 250〜 348の律(罰則)を伴う戒があったという。
 仏教における戒律は、キリスト教などの一神教における戒律──人が神に負う義務、または恩寵(おんちょう)の約束に対する責務──と異なり、修行する信者が悟り、解脱のために自主的に守るものであるという。「このような戒律に対する態度は、じつは仏教の長所であると同時に短所ともなった。それは自尊心と責任とを高めると同時に、教団の拘束力を弱め、堕落する機会を提供することにもなるからである。」(渡辺照宏著『仏教』[岩波新書,昭和31年]より)

 不飲酒戒

 回教やヒンズー教でも飲酒に対しては比較的きびしい戒律を定めている。暑かったり、乾燥した気候のもとで暮らす人々にとっては、飲酒は、よけいに暑くしたり、のどの渇きを増すことになって、不都合かつ危険なことであったと考えられる。また仏陀は、「飲酒をすると他の四つの戒律を守りにくくなる」と考えたという。

 仏教の中国への伝来

 (今回は不飲酒戒の解説に終わってしまいました。とにかく仏教はインドから中国へ伝わっていきました。というより、中国人は数百年にわたり、仏教の教典を求めて、生命を賭けて陸路(シルクロード)あるいは海路を、繰り返し往復したのです。中国人は仏教の不飲酒戒にどう対応したのでしょうか。それをたどることは、日本における仏教と酒との関係を考える上で、必要なことだと思います。)




[中国における飲酒と仏教・不飲酒戒のその後は?]

 「酒は百薬の長」──酒の製造・販売の利益に目をつけた王莽(おうもう) 

 20年たらずで秦が滅び、前漢(BC202〜AD8)の時代となった。戦乱に明け暮れた建国の時代がすぎて、武帝が統治する時代になると、社会の生産力は回復し、国力が充実した。武帝は貨幣の鋳造権を握り、塩と鉄を専売制とした。他に財産税の徴収など、経済の権力集中政策をおこなった。しかし前漢の末期、皇后の親戚である王一族が権力を独占し、その中の一人である王莽が国号を「新」とした。彼は塩と鉄の他に、酒も国営製造と専売制にしようとした。その時のコマーシャルが「それ塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本」というものであった。時の権力者がその利益に目をつける程、酒は作られ、消費されていたと考えられる。新王朝は匈奴など周辺異民族との戦いに疲弊し、わずか15年で滅び、後漢王朝に移行した。しかし彼が残したコマーシャルの酒の部分の名コピーは、二千年近くたった現代でも、酒を飲みたい人々の飲む理由のよりどころである。

 仏教興隆の素地

 仏教は前漢の末期に中国に伝わり、魏・晋・南北朝の時代に広まった。外来の宗教なので、仏教の教典の翻訳が盛んに行われた。特に鳩摩羅什(クマラジュ)は五胡十六国時代(316〜439)、長安において大規模な教典翻訳事業をおこなった。仏教は初め皇帝や貴族階級に信仰され、多数の寺や塔が建てられた。
 魏・晋の世は興亡盛衰の極まりない乱脈な時代で、儒教は衰退し、老荘思想が流行した。その厭世的・高踏的思想は、仏教の出家思想や、龍樹等によって展開された、戒律にとらわれない大乗仏教的な空観思想を受け入れる素地となったという。

 酒の隠語──賢人・聖人

 魏の太祖・曹操は酒を禁じた。ひそかに飲む者たちは、それで言葉をかえ、白酒(しろざけ)を「賢人」、清酒(すみざけ)を「聖人」とした。これが酒の隠語の始まりで、「ただいま、聖人と会っておりました」と逃げることができた。これも日本に伝わり、万葉歌人・大伴旅人は「酒を賛むる歌十三首」の中で、「酒の名を 聖(ひじり)とおほせし 古(いにしえ)の 大き聖の 言(こと)のよろしき」と歌っている。

 不許薫酒入山門 vs 般若湯

 達磨(だるま) はインドから中国に入り、粱(502〜557)の武帝の時代に、禅宗を広めた。禅宗では、教典に学ぶより、座禅を通じて般若の智恵を磨くことを重視した。座禅修業に集中するため、禅宗の寺には「不許薫酒入山門」の語がかかげられた。そしてこの厳しい標語は、「般若湯」という有名な酒の隠語を生むことになった。




[禅寺ではなぜ門に「不許薫酒入山門」と掲示したのか?]
 
鈴木大拙「酔っぱらいと心中と宗教」(中外日報の戦前の記事より)
 
 ヽヽヽ人には誰も自由を欲する心がある、即ち有限の存在を突破して無限者に合致したいとの心がある。・・・とにかく、現在の悩みを突きのけたいともがくのは本当である。ヽヽヽ金が欲しいというのもこのもがきから出る、名が欲しい、権力恋しいというのも、このもがきをなだめたいとの心からである。芸術にのがれるのもそれである、宗教もそれで役にたつ、ないし茶の湯、生花、運動競技、社会運動、何れも皆このもがきの変形である。ただその寄りすがるものの性質如何で、本当にもがきが治まることもあり、又却ってこれを増すこともある。もがきが所有欲の形で現われると、金持にでもなる。いよいよ金持になってそれで大願成就、極楽往生かというに、世間の事実はなかなかそうではない。名誉や地位や権力の所有者でも、本当に苦しみを脱していない。或る意味では、それを積み重ねていると見るのが合理的である。その上此の如き目的物は人々の手裡に容易に落ちて来るものではないから、たとえそれがもがきの良薬でも誰もがの用には立たぬ。
 ところが、ここに何人にも忽ち役に立つものがある。一時的であっても、又或る時は他に迷惑をかけることがあっても、もがき止めの妙薬となるものがある。それは酒である。コカイン、モルヒネとかいうものがあるけれども、まず昔から詩人を初めとして、宗教家にも、俗人にも、金持ちにも貧乏人にも、天子様にも平民にも、一様に好かれたところから、まず酒でこの妙薬を代表させておく。百薬の長といわれたり、般若湯といわれたり、或は酒中趣人知らずなどと謳歌せられたりするのはもっともなことである。
 ヽヽヽ印度やペルシャあたりでは、ハッシシ、バンガ、ガンジャなどという麻酔薬が宗教に用いられたということ、日本のお神酒と何も異ならぬ。回教のドルヴィシュ、日本の空也念仏、ついでに盆踊り、メソジストのリヴァイヴァル、何れに有限者のもがきをごまかした乱舞でなかろうぞ。彼らは酒飲みのやうに座的ではない、立体的、活動的に出たが、何れも無限に酔っぱらうのが目的である。巫女の神楽も本来の意義はここにある。一定の旋律で筋肉を動かし、それを或る時間継続すると酔っぱらいができる。ヽヽヽところがお神酒を戴いて余り自由性を享楽しようとすると、ヽヽヽ自分の有限性は脱却はしたが、そしてもがきも治まったが、獲得したと思う無限者は虚無主義者で無政府主義者で、また自我主義者である。ヽヽヽそれも醒めぬ時があると結構なこともあろうが、飲んだ酒は醒める時節がある。それで困る。ヽヽヽ自主自由の無限者は以前よりひどい有限の縄に縛られる。ヽヽヽ詩人や芸術家は道徳を超越したものだと聞く。酔っぱらいや心中者も多くその人々の中に見出される。いわゆる名人肌の人には普通の倫理観は加えられぬ。ところが吾も人も皆名人肌だと妄想せぬとも限らぬ。ここに人生の矛盾があり、悲劇があり、又喜劇がある。ヽヽヽ(飲酒による陶酔を禅宗の悟りとの関係で述べたもので、なぜ禅宗が不飲酒戒に厳しかったのか、その理由を示唆しているのではないでしょうか。)




[中国の飲酒詩を紹介します。まず杜甫の飲中八仙歌]

 飲中八仙歌(いんちゅうはっせんか)

 「国破れて山河あり」は杜甫(712〜770)の有名な「春望」の第一節です。この杜甫が唐の都・長安に出てまもない頃、都で有名な八人の酒飲みをスケッチしたのが「飲中八仙歌」です。この詩ほど後の世の、中国と日本の多くの酒飲みを鼓舞し続けた詩はないでしょう。
*日本語訳:『中国名詩選』松枝茂夫編、岩波文庫、1986年。

知章騎馬似乗船 知賀章が酔って馬に乗って行く姿は、まるで船にゆられているよう。
眼花落井水底眠 眼がくらんで井戸に落ちても、そのまま水の底に眠っている。
汝陽三斗始朝天 汝陽王は三斗飲んでから、やっと朝廷に出仕する。
道逢麹車口流涎 途中で麹車に出会うと、思わずよだれを流す。
恨不移封向酒泉 いつも領地を酒泉郡に移してもらえぬのを残念がっている。
左相日興費萬銭 左丞相李適之(りせきし)は毎日の遊興に一万銭を使いはたす。
飲如長鯨吸百川 その飲みっぷりは大鯨が百川の水を飲みほすかのようだ。
■杯楽聖称避賢 杯を口にして「清酒は大好きだが、濁酒はごめんだよ」とおっしゃる。
宗之瀟■美少年 崔宗之は垢ぬけした美少年。
挙觴白眼望青天 飲むときは杯を揚げ、白目を使って青空を睨む。
皎如玉樹臨風前 酔ったあとは、さながら美しい木が風にゆらいでいるかのようだ。
蘇晋長斎繍仏前 蘇晋は刺繍した仏像の前で長期の精進潔斎を行っているくせに、
酔中往往愛逃禅 酔っぱらうと、おれはいやな俗世から禅に逃げているんだという。
李白一斗詩百篇 李白は一斗飲む間に詩を百篇も作る。
長安市上酒家眠 いつも長安市中の酒家で眠ってしまう。
天子呼来不上船 天子のお召しがあっても、船に乗れず、
自称臣是酒中仙 「臣は酒中の仙人でござる」と言上した。
張旭三杯草聖傳 張旭は三杯飲んでから書く。その字は草書の聖とはやし立てられる。
脱帽露頂王公前 王侯の前でも、帽子をぬいで頭をむきだしにしてしまう。
揮毫落紙如雲煙 いざ筆をとって書くとなると、たちまち雲や霞が紙上に湧きおこる。
焦遂五斗方卓然 焦遂は五斗のむと、やっとしゃんとなる。
高談雄弁驚四筵 そのすばらしい議論と雄弁ぶりは、満座の人々を驚かす。



[中国の飲酒詩人の祖である阮籍と陶淵明について。]

 阮籍(げんせき)という人

 魏・蜀・呉の三国時代の魏から西晋が起こり、中国を統一した。(日本の邪馬台国の卑弥呼は239年、魏に朝貢している。)西晋は265年に起こり、約50年で滅び、次いで南方の東晋と、北方、西方の五胡十六国といわれる地方民族の短命な政権が乱立した時代となった。
 魏・晋の時代は貴族性社会で、陰謀がうずまき、政争の絶えなかった時代であった。この頃、文人官僚の一部に「清談」が流行した。それは音楽や飲酒とともに、高遠な理想を論ずることに耽る風潮で、「竹林の七賢」はその象徴である。彼らの生活や詩は後世、日本で画材や文学によく取り上げられ、飲酒して至る境地の理想とされた。阮籍(210〜263)はその七賢の代表で、一度は魏の朝廷で高官となったが、政争で多くの立派な人物が殺害される様子を目のあたりにして、酒びたりの生活を送るようになった。以下は彼の代表作「詠懐」の冒頭の一首。

夜中不能寝 起座弾鳴琴 夜半、寝つかれぬままに、起きなおって琴をつまびく。
薄幃鑑名月 清風吹我襟 カーテンを照らす月かげ、襟もとに吹きぬける涼風。
孤鴻號外野 翔鳥鳴北林 はるか野末では群れを離れたおおとりが叫び、飛び廻る鳥どもは北の林で鳴きしきる。
徘徊将何見 憂思獨傷心 さまよいいでて、何を見ようとするのか、思い沈んでひとり心を傷めるのみ。

 この詩で孤鴻 (ここう)は中央を追われた賢者に、翔鳥(しょうちょう)は権臣らをなぞらえていると言われる。阮籍はある歩兵部隊に酒造りの名人がいて、美酒がたっぷりあるとの噂を聞き、志願して、その部隊の身分の低い地位に移ってしまう。その後、高官たちが皆殺しになり、酒びたりの阮籍一人が生き延びた。それで当時の人々は、彼の深慮に感服したという。彼が酒にひたったのは、たんに酒ずきであったのではなく、困難な時代を生き抜くためのぎりぎりの選択だった。

 陶淵明(とうえんめい)という人

 東晋時代の田園詩人・陶淵明も、若い時代に意にそまない官吏生活を送った。王朝では、賄賂が横行して、官職が売買された。正義感とプライドの高い彼は、41才で役人を止め、故郷にもどった。以来20年、彼は自然の中で詩を書きつづけ、無名のまま死んだ。彼の詩にはいつも酒の話題が絶えない。しかし、陶淵明はこうした詩によって酒のことを言おうとしたのではなく、酒にことよせて自分の気持ちや態度を表そうとしたのである。(『中国歴史紀行(第2巻)』陳舜臣監修、学習研究社、平成8年発行、から引用要約。)彼は晩年、自分の葬式の様子を想像した詩で、「ただ恨む、在世の時、酒を飲むこと、足るを得ざりしを」といたっている。案外、これが本当だったのではないか。




[盛唐の天才詩人・李白は「酒一斗詩百篇」と言われた。]

 李白(701〜762)という人

 西域の貿易承認の子として生まれ、蜀(四川省、揚子江の上流)の地に育ったらしい。幼年より漢詩を暗唱したり諸子百家に通じたりする一方、剣術を好み任侠を重んじたという。25才のころ仕官を求めて故郷を旅立ち、生涯を遍歴に過ごした。

 長安における役人生活

 先に紹介した杜甫の「飲中八仙歌」に出てくる賀知章の推挙で42才の時、長安で玄宗皇帝に侍従として仕えた。しかし宦官を侮辱したため、讒言により揚貴妃の怒りを買い、前途を絶たれて3年で再び放浪の旅に出た。次の「客中行(かくちゅうこう)」は35、6才頃、志を抱いての旅の途中の作。鬱金(ウコン)とは酒に味をつける香草。

蘭陵美酒鬱金香──蘭陵のうま酒はウコンの香もかぐわしく、
玉椀盛来琥珀光──玉の杯につげば琥珀色に輝く。
蘭陵美酒鬱金香──この店の主人が私を存分に酔わせてくれさえすれば、
蘭陵美酒鬱金香──他郷も故郷もなくなってしまうだろう。

 彼の詩には、戦乱に苦しむ人民の心を歌ったものや、飲酒詩の背後に彼の経世の志が窺われるものが多い。以下は「宣州謝眺楼閣餞別校書叔雲」の一節。

抽刀断水水更流──刀を抜いて水を断ち切っても、水は流れつづけ、
挙杯消愁愁更愁──杯をあげて憂いを消そうとしても、憂いはますますつのる。
人生在世不称意──人としてこの世に生きるのはままならぬもの、
明朝散髪弄扁舟──明日にも官職を捨てて小舟に託した自由の身になろう。

 次は長安追放後の作「将進酒」の一節。

鐘鼓饌玉不足貴──美しい音楽も豪勢な料理も貴ぶに足りない。
但願長酔不願醒──ただ願うのは、いつまでも酔いから醒めずにいることだ。
古来聖賢皆寂寞──昔から聖人も賢人も死んでしまえばそれっきり、
惟有飲者留其名──ただ飲んべえだけが歴史に名をとどめている。

 出生と死 (62歳) にまつわる伝説

 出生については、白という名、太白という字(あざな)は、母親が太白星(金星)を夢にみて彼を生んだのでつけられたという伝説がある。彼の詩才が天才的だった故のものであろう。死については、彼は「酒に酔って、水面に映った月をとらえようとし、船から落ちて溺死した」という伝説。彼に飲酒はやはり宮廷における権謀術数をそらし、またはそれを糾弾うるための一つの手段だったのではないか。しかし彼は同時に、本当に酒に溺れたのであろう。日本の文学と酒飲みに与えた影響は非常に大きい。(続く)




[仙台伊達藩における酒造り]


 伊達政宗という戦国武将

 政宗は弟を殺し、母親を追放し、父親を見殺しにするという大きな犠牲を払って家臣団をまとめ、領土を拡大するため合戦続きの生活を送った。ようやく関西・関東における秀吉や家康による天下統一の形勢を知ると、生き残りをかけて、積極的に秀吉や家康に接近した。秀吉、家康を軽視した東北の戦国大名は多く没落の憂き目をみた。
 彼の後半生は知的で優雅な文化人的な逸話が多いが、脚色・美化されて作られたものが多い。政宗は関ヶ原の合戦の間にも、密かに岩手の南部領の一部を横取りするため、和賀一族をそそのかして反乱を起こさせている。それが徳川家康にばれて、百万石のお墨付きを貰いながら、わずか二万石の加増にしかならなかった。この事件以降、政宗は油断のならない野心家大名から、徳川幕府への忠節を標榜する大名へと変わっていく。

 伊達家酒造りの始まり

 政宗は仙台の町造りをするため、土木工事や大工の専門家など、多くの職人を関西から招いた。酒造りについても、政宗は柳生但馬守から紹介された醸酒家「もろはくや又五郎」(家名は榧森(かやのもり)という)を召し抱え、慶長13年(1608)、仙台城・三の丸の崖下に御酒蔵を建築し、酒造を命じた。現在、その場所には説明板があり、酒造に用いたという湧き水が今でも流れ出ている。(仙台市博物館に向かって左手を、城の方に登る細道の途中にある。)ここが仙台酒造発祥の地である。

 どんな酒を造っていたのか?

 当時、造っていた酒の名称は以下のように伝わっている(『仙台物産沿革』及び「大正2年榧森又右衛門一六代ひで子三七才談」より)。
 「夏氷酒、伊仁酒(イニシュ)、南蛮酒、忍冬酒、桑酒、延齢固本酒(エンメイコホンシュ)、葡萄酒、枇杷酒、泡盛酒、味醂酒、みかん酒、砂糖泡盛酒、菊酒、楊梅(ヤマモモ)酒、覆盆子(イチゴ)酒、みぞれ酒、しそ酒、焼酎本なほし、梅酒、榧酒、疝気薬酒、白梅酒、龍眼酒、白酒、豆琳酒、甘露酒、当座玉子酒」
 製法は秘伝として代々口伝とされた。明治十年、榧森氏は三の丸から鉄砲町に移り、その後、家が絶えて文書資料は散逸してしまったという。酒の名称から推定されることは、濁酒、泡盛、焼酎を造っていたこと、焼酎に果実を浸ける薬酒のような酒を造っていたこと、葡萄など果実を原料とする酒も造っていたことなどが分かる。享保十七年からは「諸白」も造り始めたといい、醸造していた酒の種類の多さに驚かされる。
 他に「印籠酒」という粉末の酒があったという。印籠にいれた粉末少々に熱湯を注いで酒の代用としたというが、実際にはどんなものだったが不明である。仙台藩にはその後、榧森氏の推薦で奈良の岩井氏、その分家の安積氏が醸造を始めた。幕末の安政年間に伊沢氏が新たに「御軍用御酒屋」となり醸造業を始め、現在、仙台市で藩政時代から続いているのは、この伊沢氏の勝山酒造のみである。




[戦国武将と飲酒、福島正則の場合]

 戦国武将の飲酒

 武勇、武士道、豪傑などという言葉のイメージと酒豪という言葉には何かしら共通性を感じる。しかし現実に武勇、武士道が華やかなりし戦国時代、武将に案外、大酒家は少ない。大酒家が日本の歴史上、多数輩出してくるのは幕末と明治時代になってからである。現代には、著名人で禁酒家を探す方に意味があるだろう。なにしろ300万人もの習慣的大量飲酒者がいる日本である。戦国時代と逆に大酒家を探すのに、日本を見渡す必要はない。町内だけで充分である。それはさておき、以下は『英雄医談』(王丸勇著、新人物往来社、昭和47年)にある福島正則の飲酒の逸話である。

 福島正則はアルコール依存症か病的酩酊か?

 戦国武将で有名な大酒家は上杉謙信と福島正則の二人である。謙信は生涯独身、仏道を修め、義侠に富み、兵略に長じ、大酒を好み48才で死亡した。正則は秀吉に仕え、武勇にすぐれ、秀吉対勝家の決戦「賤ケ谷の合戦」で七本槍の一人として武功をあげ、五千石を賜った。朝鮮出兵の後、石田三成に反感を抱き、関ヶ原の合戦では家康方につき、その働きにより、安芸・備後(現在の広島県)五十万石の大名となった。
 新井白石の『藩翰譜』という本によると、「されど此の人 心猛(たけ)く行ひ暴(あら)くして、人の命を絶つことを昆虫を殺すとも思わず、まして此度の功にや誇りけん、不思議の振舞多かりけり」とあり、家康もその後、彼の大酒の上の乱行に手を焼いた。それ以上に正則の家臣は大変だった。『当代記』という本にも「短慮荒々敷して、被官以下常に戦慄す」と記さている。
 彼は少量の酒で人が変わったようになり、乱行を起こすという病的酩酊タイプではない。若い頃から大酒を続け、酩酊中に乱行を行い、ブラックアウト(健忘)のため、それを覚えていないというアルコール依存症のタイプであった。

 『武功雑記』の記述

 江戸からの帰国は船で、いつも鞆浦(とものうら)に着船し、部下は下船に際し、衣服を着替えることになっていた。ある時の着船の折り、正則は酩酊しており、突然、「着替えの触れがない」と、担当の武士・柘植清右衛門を怒りつけた。清右衛門は「まだ命令をお聞きした覚えがない」と答え、家老たちもとりなしたが、正則は「清右衛門の首を見るまでは下船しない」と言い張った。とうとう清右衛門は切腹し、正則は機嫌を直して下船した。その後、高いびきで一睡し、醒めると、用事があると清右衛門を呼んだ。家老が最前のいきさつを話すと、正則は肝をつぶし、声をあげて泣いたという。
 『毛利雑記』には「此の人生得大酒にて昼夜酔いたるばかりにて、本性なることなし、これに因り科(とが)無き者を罰し、卑賤なる者も召出し、酒の友となれば徳人となし、国の仕置(しおき)猥りなりしに依て、備芸両国を召放さる」と記されている。




[戦国武将と飲酒、福島正則の場合――その2.黒田節の由来]

 『広辞苑』で「黒田節」と引くと、次ぎのように出ている。「福岡の黒田藩の武士らによって作詞・愛唱された唄。詞型は今様調、旋律は雅楽の越天樂(えてんらく)からでる。元歌「酒は飲め飲め飲むならば……」によって酒席歌として普及。筑前今様。」以下も『英雄医談』の引用である。
 「秀吉が伏見城に居た時、諸大名も伏見に屋敷をかまえた。(黒田)長政と正則は仲が良かったが、ある年正則のところに母里但馬(太兵衛)を使者につかわした。(彼は)武勇においても、酒においても人に譲らず、元来口が悪く、荒武者で、酒が過ぎると更に激しくなるので、酒を慎むように注意された。福島邸を訪れると、正則は晩酌の最中。但馬は先ず使者の本旨だけは話し終わった。
 正則はいい加減に酔っていて大盃を出してこれで飲めと強いた。但馬は酒のため使命を辱めてはならぬと自制し、辞退してこれを受けない。すると正則は「聞きしに劣る卑怯もの、こうした腰抜侍ばかりでは黒田も困るだろう」と罵った。但馬は主人長政と昵懇の正則と喧嘩も出来ず、じっと我慢していた。正則はいよいよ飲めと勧めてやまない。「この大盃で飲んだら、望みのものは何なりとも引出物として与える」という。なげしの上には正則秘蔵の槍がかかっている。これは太閤が日本無双の槍として大事にしていたのを、正則の戦功を賞して与えたものである。但馬は正則に散々罵られ、黒田家の面目にかけても、正則の鼻を明かせてやりたかった。「それではあの槍を下さるか」と念を押した。正則は「合点じゃ」と答えたので、なみなみとついだ大盃を飲み干し、さて約束の槍を肩にして悠々として帰っていった。
 その翌日のこと、正則はなげしの上に槍がないので驚いた。家来に糺せば、「あれは母里太兵衛が持って行った」という。「なに、あの槍は太閤からいただいた家宝で、太兵衛めにやってなるものか」と、使者を立てて取り戻そうとしたが、但馬は「武士に二言はない」といって返さなかった。母里が使命を辱めなかったことを賞し、黒田武士の誉としてこの槍を母里但馬飲取槍と称した。
 福島家の改易彼は家康から大封を受けてから18年後、元和五年(1619)6月、二代将軍秀忠の世に、封を奪われ、信濃の川中島に移され、四万五千石を給された。日本史年表を見ると、その4年前の3月、大阪再挙の報で、大阪夏の陣が起こり、5月に大阪落城、秀頼・淀君らは自殺した。7月には、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山法度が発令された。翌年、家康は死去したが、徳川幕府の体制は完成しつつあった。福島正則の改易には、諸説があり、大阪方との内通説、家康の家臣を切腹させた事件説、嗣子正之(妻が家康の養女)監禁餓死説、家康遺言説、城の無断修復説などがある。
 彼は寂しく晩年を送り、寛永元年(1624)、64才で死去した。当時の掟に背いて、検死を受けずに火葬にしたため、川中島の所領は没収された。その死因についても謎があるという。その後、彼の四男正利が三千石の旗本に取り立てられたという。

  

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