「宮城野原・史跡めぐり」≪補遺≫

 史跡巡りは一日だけでした。従って宮城野原一帯の史跡には他にもっと興味あるものもまだまだあるのです。それらを「補遺」としてここに追加していきます。

 6月初旬のある日曜日、私は猫塚や保春院の墓地に玉虫三太夫の墓を探しました。保春院の墓地を歩いていると、「宮城集治監在監死亡者之墓」という共同の墓地がありました。この近くに「宮城刑務所」があり、歴史的に重要な場所であることに気がつきました。そこで私は車をそちらへ走らせました。下の写真がその出入り口です。

≪「宮城刑務所」≫

 この刑務所は伊達政宗が隠居して住んだ若林城の跡に、明治12年に建設されました。当時は宮城集治監と称し、収容人数3千人、まず西南の役の国事犯を収容したそうです。中央に見張りの六角五層のルネッサンス風の塔があったことから「六角大学」と呼ばれました。左手の白い標識には「若林城跡」と書いてあります。写真には写っていませんが、右手に立て札が立っていて、「出所者出迎えについて」として、「近隣住民の迷惑にならないよう、次のことを厳守し、静かに待って下さい。……」と書かれていました。
 ここへ入るのは簡単なことではありませんし、いったん入ると出るまでに長〜い時間がかかるようです。待ちに待ったその日はよほどうれしいことでしょう。しかし中にいた方が健康的(?)と、すぐまた入り直す人も多いようです。もちろん「保春院」へ入る人もいて、そんな所を写真に撮って廻る人もいて、人はさまざまですね。

 さて、下の写真は「法領塚古墳」といい、保春院の近く、聖ウルスラ学院の校庭の一角にあります。ついでに写真を撮ろうとして、校庭を囲むフェンスの間からカメラを構えたのですが、そこがテニスコートで、女子高校生がいるのです。「女子高生の姿を盗み撮り、近所の開業医・K」などと新聞に書かれてはまずいと気がつき、一本道路をへだてた遠くから写真を撮りました。まさに命がけのホームページ作りです。

≪「法領塚古墳」≫

 この写真を撮った後、10月中旬、たまたま万葉堂という古本屋へ行きました。そこで「法領塚古墳調査報告書」という薄い本を見つけて購入しました。そこにこの古墳が壊されずに高等学校の敷地の中に残ったいきさつが書かれていました。

 この古墳は頂上に「法領権現」という石碑があることから名付けられており、大正6年頃に笹井新也という人が、この丘が古墳であることを報告したといいます。当時、この辺の土地には伊達屋敷があり、昭和29年に聖ウルスラ学院に渡り、学校が建設されることになったそうです。この時、スザンナ・マルチン校長の善意によって破壊を免れ、敷地に保存されることになったといいます。

 日本人が繰り返し、繰り返し盗掘し、そのあとは古墳であることすら忘れられていたのです。それが外国人から文化遺産であるという理解のもとに、敷地内にきちんと保存されたとは、ありがたいことだと思うと同時に、日本人として恥ずかしさを感じざるを得ません。

 以下は毎日新聞の地方版(2010年11月11日)に載った記事です。

「法領塚古墳:東北最大級の円墳 直径50メートル以上と判明」
 仙台市教育委員会は10日、同市若林区一本杉町1の学校法人「聖ウルスラ学院」敷地内の法領塚古墳第2次発掘調査で、これまで直径32メートル、高さ6メートルとされてきた円墳が直径50メートル以上だったことが分かったと発表した。古墳時代終末期(6世紀末〜7世紀ごろ)の円墳としては東北地方最大の規模という。
 法領塚古墳の発掘調査は1970年の第1次調査以来。同学院の新校舎建設を前に、今年8月に約2週間確認調査を行い、横穴式の石室前部分に通路状の空間を発見。10月12日から1カ月間の調査が行われており(1)上段と下段からなる2段築成(2)石室前方に長い前庭部を持つ構造−−であることも判明した。
 どういう人物の墓かは不明だが、市文化財課は「これだけのものを作るには労働力や財力が必要。仙台平野の豪族だろう」としている。この日は同学院の生徒にも公開され、高1の大村真夢さん(15)は「歴史の授業にも興味がわいてきた」と話した。【垂水友里香】


=補遺の補遺=

 仙台駅の東口から、わずか660メートルの場所に古墳があります。駅から宮城野総合グラウンドへの方向に歩いてわずか10分。右折するとすぐ左手に日蓮宗の大きなお寺、孝勝寺があります。このお寺の本堂の左脇の奥にお稲荷さん(上の写真)があります。実はこれが「孝勝寺境内古墳」なのです。
 仙台駅の東口一帯を昔、「八塚」と言いました。一面の草原に八つの塚(墓)があったことから、八塚と言ったのでしょうが、それらが現在のどれを指しているのかは諸説があってはっきりしません。
 孝勝寺は伊達家の庇護が厚かったお寺でした。ただ伊達家が仙台に移って来る前に、すでにこの地に日蓮宗の寺があったそうです。小生が往診していたこの寺の別院の老僧様がそう言っていました。周囲は荒涼とした荒れ地で、沼や古墳や墓が点在していたそうです。孝勝寺の本堂の裏にはかつて古い無縁になった墓石が沢山放置されていました。中には大きな「仙台能楽の碑」という石碑もその中に混じっていました。「蛇塚」の碑もありましたが、本堂の裏が駐車場になり、それらの墓石、碑、蛇塚、すべて消えてしまいました。本堂の前には、五重塔、鐘楼が豪華絢爛に建っていますが、これではダメだと思います。
 それはともかく、この古墳は寺の境内だったため、破壊から免れたと思われます。ただ発掘調査は行われたことはなく、規模、出土品、周溝の有無など不明です。ただ古墳時代後期の円墳であるとだけ推定されています。周辺は寺院が多く、墓石は殆どが葛岡墓地へ移動され、墓域は今はビルの林立する商業地、住宅地です。しかし深夜、歩きながら、その昔に思いを馳せると、なにやら背筋が寒くなるような気持ちになるのですが。



  ホームへ戻る

宮千代加藤内科医院(仙台市)のホームページ