「仙台の『くさむら塚』をさがす」

 下の写真は宮城刑務所の近くで、広瀬川のほとりにある黄檗宗の禅寺「桃源院」にある「叢塚(くさむらづか)」です。私は自分がいま住んでいる宮城野原が天明の飢饉の時、住民がほとんど死んでしまい、無人になったということを知り、飢饉とそのあと作られた「くさむら塚」に関心を持ちました。そして仙台市内のくさむら塚を訪ね歩いてみようと思っています。

≪桃源院「くさむら塚」≫

 次の写真は仙台駅の東口からわずか600メートルぼどのところにある徳泉寺「くさむら塚」です。もとはお互い離れた位置にあったのを墓地の隅に二つ並べてあります。

 碑を建てるときには、お金を集め、碑文を揮毫したり石碑を作ったり、除幕式のような儀式をして、飢饉のことを忘れまい、犠牲者の霊をなぐさめたいとして建てたはずです。

≪徳泉寺「くさむら塚」≫

 次の写真は、金勝寺という、これも仙台駅の東口から700メートルほどの、仙台サンプラザの南となりのお寺の境内にあるくさむら塚です。徳泉寺の碑にも彫られている「丙申」とは天保七年のことで、この年の凶作では、仙台藩では三十万人の餓死者がでたと『宮城県史(二)』には書かれています。二つの寺では粥小屋を設けて、集まった流民に与えたものの、死者は両方の寺で2700人に及んだそうです。もともと碑はばらばらの位置にあったのを、こうして二対づつ並べてあります。四つ碑の下に2700人と言えば、一つの碑の下にはそれぞれ700人近い餓死者が集められて、埋められたことになります。悲惨で恐ろしい話で、想像もしにくいことです。

≪金勝寺「くさむら塚」≫

 私はもう一ケ所のくさむら塚を、これも近くの願行寺(仙石線をはさんで北側、つつじが岡天満宮の向かい)に訪ねました。ここにも三つのくさむら塚があるというのです。

 仙台サンプラザがある場所には、もと「つつじが岡病院」という法定伝染病の患者の収容・治療をする病院がありました。私は昔ここに当直に来ていたことがあるので、昔のこのあたりのさみしい、さむざむとした雰囲気をよく覚えています。本当に幽霊でも出そうな場所でした。

 今は仙台サンプラザではいろいろな催し物が行われ、沢山の人々が集まる場所です。私はサンプラザを横に見ながら願行寺に行き、驚いてしまいました。昔見た、荒れ果てた墓地はすべて消え、寺の建物以外は駐車場に変わっていました。墓石は多分、遠くの墓地公園へでも移動したのでしょう。下の写真が境内にあるくさむら塚です。

≪願行寺「くさむら塚」≫

 もし、無縁の墓石がきちんと、せめてまとめられて、保存されていなければ、石の下に埋められていた多数の人々の霊は悲しみ、怒り、タタルでしょう。せめてお寺だけでも、便利さ、経済性ばかりを優先してほしくはなかった。きれいに土がならされた駐車場を見て、私はなんとも言えないさみしい気持ちになりました。

 次の写真は仙台市太白区坪沼にある「餓死有無両縁供養塔」です。

≪「餓死有無両縁供養塔」≫

 名取川にかかる生出橋をわたり、31号線を村田町方面に行き、山を越えると坪沼です。坪沼小学校前で左折して少し行くと、三つの石碑が道路の左側に立っています。左側の一番大きい石碑には「餓死有無両縁供養塔 寛政二」と彫ってあり、天明の飢饉の死者の供養碑です。坪沼をすぎて村田町に入ったところが菅生という地区ですが、ここにある妙頓寺の住職さんである久保田玄立先生は仙南郷史会の設立者で、郷土史に詳しい方です。先生にこのくさむら塚のことをお聞きしたことがあるのですが、有無両縁というのは、身元の分かっている餓死者と身元の分からない流民の餓死者をともに葬ったということだそうです。

 空腹が続いているところに何かを食べる場合、おかゆのような軽い消化のよいものから食べないと、腹痛を起こし、苦しいものだそうです。寺や篤志家が粥小屋を作り、炊き出しをしたのでしょう。お粥で命を拾った人もいたでしょうが、栄養失調や病気を併発して死ぬ人々が多かったのです。死者が多く出たのは冬をすぎて春、暖かくなる前だったそうです。次々とでる死者の死体は腐乱したでしょうから多分、大きな穴に次々と投げ入れられたのでしょう。

 ちなみに下の写真は久保田先生がおられる妙頓寺にあるくさむら塚です。

≪妙頓寺「くさむら塚」≫

 「天明卯辰両歳死亡」とあるので、天明三、四年の死者を弔ったものだそうです。

 「隻縁塔」とは、先ほど記したように有縁、無縁の餓死者を一緒に葬った供養碑だという意味だそうです。有縁も無縁も区別しないというのは、久保田先生によると、親鸞の教えにある考え方だということでした。小生にはまだよく分からない考え方ですが、なにかとても暖かい気持ちにさせられました。

 仙台郷土研究会の副会長さんである高倉淳(きよし)先生は宮千代二丁目に住んでおられ、とてもお酒が好きな方ですが、それはともかく、明治時代のコレラ流行の時のくさむら塚が、仙台市青葉区水の森市民センターの近くにあると私に教えてくれました。平成11年11月3日、秋晴れの日、そこに行ってみました。下の写真がそのくさむら塚です。

≪「くさむら塚」(青葉区水の森市民センターの近く)≫

 左側にある白い標柱の側面には以下のように書かれていました。「この地は明治十五年夏に大流行したコレラにより死んだ人達の死体焼場跡である。火葬死体数二七六とあり、残骨と灰で築かれた塚の上に立てられたのがこの供養碑である。昭和五十一年三月三十一日 仙台市教育委員会 財団法人宮城県文化財保護協会」

 次の写真は10メートルばかり離れたところにある「火葬場跡の碑」です。

≪「火葬場跡の碑」(青葉区水の森市民センターの近く)≫

 大正14年に発行された『仙台昔話 電狸翁(でんたぬおう)夜話』という本に、「コレラ病流行の惨状」という項目があり、この時の仙台の状況が詳しく描写されています。この本は伊藤清治郎(1856年生まれ)という電気事業をした実業家が口述したものを本にしたものです。

 明治15年7月19日、最初の患者が亘理郡荒浜に発生した。早馬でそれが仙台に知らされ、21日には仙台でも患者が発生した。市内の多くの商店は店を閉め、市民はみな戦々恐々としていたが、8月3日ころから、各町至る所に患者が続々発生した。当局の対策は、患者発生の家々に黄色の紙に「コレラあり」と書いて張り紙をして、交通遮断を行った。至る所交通遮断となり、通行人は途絶し、市内は火が消えたような光景だった。

 台の原に避病院、北山に死体焼き場を設けたが、患者と死者が日一日と多くなり、河原町の桃源院うらと、木ノ下薬師堂のそれぞれに避病院と焼き場を設けた。この時、医師もコレラ患者に接することが初めてだったため、熱と下痢が始まるとすぐコレラとして避病院に送ったため、そこで本当のコレラに罹って死亡した人もあったらしい。担架がなくて避病院へ運ばれるのが遅れ、一日家で寝ていたら治った人もいた。

 木ノ下薬師道では付近住民が、「避病院の取り払いを要請しても当局は取り上げないだろう」と、放火して病院を焼いてしまった。流行は約40日続き、9月6日には全く終了した。この間、患者は920人、死者は410人というから、死亡率は約45%である。

 行き倒れと餓死者

 私が住んでいる地区は宮千代といいます。つつじが岡のふもとに海岸まで広がる宮城野原の一部です。宮千代という名前はこの地区の伝説に由来しています。近くに宮千代児童公園があり、そこに「宮千代塚」があります。そのいわれを書いた古い看板が道路に面して立っています。
 その伝説を簡単に述べます。昔、京の都へ和歌を学ぶため旅に出た、松島の宮千代という子供のお坊さんが、この地で行き倒れになって死にました。彼は宮城野原を見て、「月は露 露は草葉に宿借りて」と和歌の上の句を作って、下の句ができずに死んだというのです。村人は宮千代をこの地に葬ったのですが、彼は成仏できずに、夜な夜な塚の近くに亡霊となって上の句を口ずさんだそうです。それを伝え聞いた松島のお寺のお師匠さんが来て、さまよう亡霊に向かい「それこそそれよ 宮城野の原」と下の句を叫んだところ、彼は成仏できて、以後、亡霊は出なくなったといいます。このような和歌の完成と成仏という伝説は各地にあるそうです。町名は亡霊由来なのです。
 私はもともとこの地に何の縁もありませんでした。ここに来て、診療所を開く準備を始めた頃、私は変な夢を見ました。それは、行き倒れの老人が私にすがりついてくる夢でした。泥と落ち葉にまみれた、やせ細った老人でした。私はなぜこのような夢を見たのか、不思議に思いました。
 宮千代塚のとなりに「戸津氏の墓」というのがあります。これについて私は仙台郷土研究会の高倉淳先生と一緒に調べたことがあります。今それは新しい方の看板にまとめられて書かれています。要は、この地が、天明の飢饉の時、村人が死に絶えて、荒れ野になっていたのを、戸津という武士が少数の農民と入植して、再度、ここを開墾したのです。
 現在、この宮城野原に絶え間なく聞こえるのは、自動車の騒音です。しかしかつては仙台城から、鈴虫の鳴き声を聞くため、お姫様とお付きの老女たちの一行がこの地に遠足に来ました。それは年に一度の行事で、彼女らがお弁当をたべた場所だという「鈴虫壇」が宮千代塚の近くにあり、そこには数年前、記念碑が立てられました。宮城野原は奈良・京都から、多賀城へと続く道にそった、萩と草木の群れ茂る広い原っぱでした。多賀城へ向かう人々にとっては、都ははるかに遠く、都へ向かう人々にとっては、旅の前途が思いやられる、やるせない、また詩情にかられた場所だったようです。旅の途中の死者は道の傍らに葬られたことでしょう。
 私は不思議な夢を見たことの意味を考えざるをえませんでした。そして遠くふるさとを離れていずれこの地に命の火を消すであろう自分自身が、かつてこの地に行き倒れになって葬られた人々の身と何ら変わりがないと思うようになりました。
 私はヒマがあると、市内、県内の叢塚(くさむらずか)をたずね歩いてきました。叢塚は飢饉を生き延びた当時の人々が、有縁無縁の餓死者の成仏を願って建てたものです。飽食のこの世に、飢饉の跡をたずね歩くというのはおかしなことです。塚が見つかると数百、あるいは千人を越す、飢えた流民の姿が浮かんできます。当時の天候と不作が主な原因だったとはいえ、為政者側の無策、利己主義も餓死者の数を増大させたのです。河原で、寺の境内で、死にゆく人々は何を思ったでしょう。しかし、今も政治家の無策と利己主義によって、日本は飢饉にも似た危機の中にいるのではないでしょうか。飢えた流民も現代の我々も変わるところはないと思うのです。財政破綻に加えて、自然環境を破壊汚染した分、子孫にとっては飢饉よりひどいと言えます。
 人間の死を、成仏できた死と、できなかった死に分けるのは、何となく分かります。しかし宮千代のように成仏できなかった死人を、他人が成仏させることができるというのは不思議な考え方です。私はそこに人間の一種の願望を感じます。人間はだれでも、自分が他人の役にたった、自分の存在や生活が、子供や家族、地域の人々に喜ばれたという実感をつかんで死にたいのです。そしてそれを死者にも与えることが、成仏あるいは鎮魂になると考えたのではないかと私は思うのです。亡霊は叫びます。「自分の死は無駄だったのか。自分の生には何の意味があったのか。」これは上の句でしょう。弔う人は答えます。「あなたの死を無駄にはしません。」これが下の句の意味でしょう。(叢塚は勝手に移動されていたり、粗末に扱われているものもあります。)

 (月刊文集『砂時計』へ投稿。平成13年2月)   

 

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