宮城野原・史跡めぐり≪宮千代周辺≫

宮千代塚と戸津利源太の墓

 一行が鈴虫壇から次に訪ねたのが宮千代塚です。区画整理の為、昔の位置から10メートルくらい移動されたそうですが、今は児童公園の隅にあり、医院から100mくらいのところにあります。町名にもなっている宮千代は子供の坊さんで、都へ和歌の勉強に行く途中、ここで死んだそうです。「月はつゆつゆは草葉に 宿借りて」と上の句を作り、下の句を作らずに死んだので、夜な夜な亡霊になって出て、上の句を唱えたそうです。宮千代がいたお寺のお坊さんが噂を聞き、ここへ来て「それこそそれよ 宮城野の原」と下の句を叫んだら、宮千代の亡霊が出なくなったということです。町名は亡霊の名前なのですね。

 平成11年3月末、碑の土台の土が雨に流されて、不安定になったので改修と整備が行われ、碑のそばに新しい説明板が建てられました。説明文は宮千代二町目にお住まいの仙台郷土研究会の副会長である高倉淳(きよし)先生が書かれました。

 このような和歌のやりとりの伝説は日本の各地に数多くあるそうです。さみしい野原に、行き倒れの旅人を見つけた村人がその遺体を葬ったことはあったのでしょう。天明の飢饉の時には村人がいなくなったほど、死者が出たそうです。無人の宮城野原にお百姓を伴って再び入植し、開墾を指揮した戸津という武士の墓が右隣に建っています。

≪宮千代の碑≫

≪国分尼寺・金堂跡≫

 奈良・平安時代、多賀城が東北地方の軍事の中心なら、宗教の中心は国分寺、国分尼寺でした。しかし1189年、源頼朝の率いる軍勢が、「つつじが岡」に対陣する藤原勢の意気をそぐため、すべての堂宇を焼き払ってしまいました。(934年、陸奥国分寺は一度火災にあっています)国分寺はその約四百年後、伊達政宗により、薬師堂として再建されました。しかし国分尼寺は今も廃墟のままです。土地の人々は少し盛り上がった金堂の跡地を「観音塚」と呼んでいました。現在、囲いと案内板がそこに立っています。
 尼寺にはどのくらいの数のどんな女性たちが修行や布教をしていたのでしょうか。戦争のあと、僧侶、僧尼さんたちはどうしたのでしょうか。全く分かりません。ただその尼寺の敷地の一角に、小さな姥神様があります。今、その神社の由来はだれも知りません。下がその「姥神社」で、医院から約75mのところにありますが、移転される前は国分寺と国分尼寺の間の尼寺寄りの場所にありました。私の友達の野良猫たちがひなたぼっこをする場所でもあります。

≪「姥神社」≫

 大きな神社は由来がはっきり看板などに書いてあり、各時代の有力者、領主などの保護や寄進、尊崇をうけてきました。しかし、その由来の多くは、エミシを征伐した朝廷側の武将が、戦勝を祈願して勝ったので神社を建てたというものです。それに対して、姥神社など、由来のはっきりしない小さな神社こそ、ヤマト政権が東北に及ぶ以前から、集落の人々とともに存在し続けてきた、土着の神社です。
 深夜、神社の境内にたたずむと、集落のなかで長命を保って、経験と知識を駆使して、子供や妊婦やけが人の面倒をみた老婆の姿が浮かんでこないでしょうか。

≪伊達藩百万石の夢を残す和賀忠親主従の墓≫

 尼寺の墓地の奥の一角にあります。戦国時代、現在の岩手県和賀郡にいた和賀一族は、伊達政宗の後押しで、旧領地の奪回を目的として南部藩に反乱を起こしました。南部藩主は徳川家康に訴え、家康は和賀忠親を喚問することになりました。1601年、一族の主従計八名はここで自刃し、政宗の責任は問われなかった代わり、関ヶ原の戦いの前に授けられた百万石のお墨付きは反故(ほご)とされました。

 政宗は真相の露見を恐れて、忠親らを大森(金ケ崎)から仙台の国分尼寺に呼び出し、自害を強要したとも、殺害したとも言い伝えられています。また、実際には、政宗は犯罪者らを殺し、その首を江戸に送り、和賀一族を宮城県志田郡松山町の辺鄙な場所に領地を与えて匿ったとも言われています。いずれにせよ、「死人に口なし」で、事件はうやむやとなりました。

 私は松山町に和賀一族が住んだという場所を見に行ったことがあります。和賀家の屋敷跡、墓地が実際にありました。今、尼寺に並んでいる主従の立派な墓は、中央の忠親の五輪の塔が昭和12年、他は昭和59年に建てられたものです。暗くて写真にはならなかったのですが、五輪の塔の左脇に碑があり、そちらは享保五年(1720)に松山の和賀氏が建てたもので、政宗が忠親の子孫を保護したことは確かなのです。墓石の陰影に伊達藩の光と陰を見る思いです。(詳しくは「松山町ふるさと歴史館」の企画展資料『松山と和賀氏』平成6年7月発行、に出ています。)

≪岩手県の岩崎城跡の本丸跡に建っている公民館≫

≪公民館に陳列されていた和賀忠親の肖像≫

 七郷堀は宮千代一丁目の西部に、貨物線に接して南北に流れています。取水口は広瀬川の愛宕橋のやや下流にあり、途中の若林区役所のあたりで六郷堀と別れ、地下を走って白萩町で堀として地表に姿を現し、宮千代、萩野町、卸町、日の出町を経て、鶴代町で南に向きを変え、七郷や荒井といった田園地帯に農業用水を供給しています。いつ頃に作られてのか、はっきりしないそうですが、「正保(1644〜48)仙台城絵図」に見えるそうで、一部自然の川を利用して作られたようです。高齢の患者さんに聞くと、戦後、この堀で、洗濯をしたり、農機具や馬を洗ったり、子供たちは水遊びをしたそうです。戦前は貨物駅や貨物線がなく、陸軍の用地(騎兵第二連隊、大正14年に川内から宮城野原へ移る)と接していたので、軍用馬に水を飲ませたり、馬を洗ったりする兵隊がよく来ていたそうです。その名残の一つが堀端にある小さな碑(「日露戦役碑」)です。今では護岸工事をしたコンクリートの上に目立たずに立っています。

≪七郷堀≫

≪「日露戦役碑」≫

 堀の水がないとき、水路へ降りて碑文を読むと、「戦役記念河内中佐書」とあり、石碑には「明治三八年八月」と彫ってありました。騎兵隊のことを覚えている人々は現在、70歳以上になっています。明治38年というと、さらにその一世代前の時代になります。その年の1月1日に旅順が陥落し、3月1日から10日まで奉天会戦、5月27日から28日まで日本海海戦、8月10日からポーツマス会議が行われました。この水路で馬を洗ったり、馬に水を飲ませていた騎兵隊の隊員たちは、かつて訓練を受けたつつじが岡に帰ってきて、この碑を建てて解散したのでしょう。当時の兵隊の人々には、この水路が特別に思い出深い場所だったと考えられます。

 

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