「宮城野原・史跡めぐり」≪やや遠いところ≫

 

 一行は国分尼寺をあとにして霞の目飛行場へと長蛇の陣を作って進み、たどり着いたのは「谷風梶之助の墓」でした。

≪「谷風像」(勾当台公園)≫

 墓は国道四号線バイパスに面した飛行場の裏手にあります。『東郊史跡巡り』には「……田圃のなかに惜しい程堂々たるものである。時代を聞けば、林子平と時を同じうしているわけだが、相互没交渉らしく思へる。……」とあります。

 史跡めぐりというと、どうも墓めぐりになってしまうので、ここでは墓の写真はカットして、宮城県庁前の公園の中にある谷風の銅像をお見せします。身長190センチ、体重180キロ。明和3年(1766)大関になり、46歳現役横綱で死去(1795)するまで、負けたのは3回だけと墓地の看板に書いてあります。従って29年間、ほとんど「負け知らず」ということになります。それでも伊達の殿様は、谷風が負けると、仙台藩の恥になると、谷風を伊達藩の重臣である白石の片倉家のお抱え力士にしていました。この点、宮城県お抱えサッカーチームの「勝ち知らず」とは大違い(今期3勝のみ、5月24日現在)。チームの名前を「タニカゼ」とすれば良かったかも。しかしこのあいだブランメルをベガルタに変えたばかりなので無理か?

 さて英雄には逸話がつきもの。逸話には作り話がつきもの。谷風の足跡がついた石というのが薬師堂の本堂の左手にあります。「谷風の踏石」がそれです。

≪「谷風の踏石」≫

 「この石、足あとみたいなヘコミがついてらあ。」「おもしろい石だども、足あとにゃあ大きすぎるべ。」「天狗の足跡とか、弁慶の足跡ってことにしてどっかへ置くべ。」「バカこけ。天狗は下駄ばきだべし、弁慶がはだしってことないべ。」「そだ、谷風の足跡とすべあ。」「そだあ、谷風のお袋さんがよ、薬師堂さお百度まいりして谷風が生まれたっていうからさ。谷風がお礼参りして四股ふんだとき、石に足跡ついたことにすっぺ。」「そだあ、そだあ、皆で薬師堂へ運ぶべや。」かくして真偽の確かな文化財が、いつの頃か誕生したのです。

 上の写真は平成13年4月15日、ちょうど桜が八部咲きの日曜日、花見客でにぎわう薬師堂の境内です。晴れていたのでデジカメを持って行き、写真を撮るころから急に曇り空になり、あと風雨が強くなりました。
 谷風と雷電と小野川を「寛政の三力士」と言います。一方、「寛政の三奇人」というのがあって、林子平、高山彦九郎、蒲生君平を言います。谷風の銅像の近くにその三奇人の一人、「林子平」の銅像が立っていますので、ついでに写真を載せて紹介します。

≪「林子平像」(勾当台公園)≫

 1792年、『海国兵談』を出版し、幕府から絶版と蟄居を命じられた人です。日本を脅かす海外諸国の事情を世間に知らしめるための出版が、幕府からみると「余計な社会不安を起こす」ということでした。彼は六無斎と称して、有名な辞世の和歌、
 「親もなく妻なし子なし 版木なし 金もなければ 死にたくもなし」
 を残しています。「六無」とは仏教用語で、あらゆる妄想・雑念がない心の状態を意味します。自分を六無斎と称して、浮き世への未練をあえて辞世の句に残し、「死にたくもなし」と言い切ったところに、先覚者のなまの気持ちがこめられていると思います。
 1853年にペリーが来航していますから、それにさかのぼること61年。先覚者とは、非業の死をとげ、時代が変わると銅像が建立される人を言うのでしょう。

 次の目的地は「遠見塚古墳」でした。

≪「遠見塚古墳」≫

 国道四号線バイパスから写真を撮りました。四世紀末から五世紀初めころ作られ、全長110m、東北で三番目に大きい、二番目に古い古墳だそうです。古墳周辺は南小泉遺跡という集落跡があり、被葬者は畿内との関係を持っていたそうです。
 いつも巨大な遺跡を見ると思うのですが、土木工事にかり出された人々は大変だったろうと思います。集落、近隣のだれ一人として知らぬ者のない、刃向かうこともできない王だったのでしょう。しかも命のよみがえりや、一族の永久的な支配を願って、古墳が作られたのでしょう。しかし、一族は滅び、副葬品は盗掘され、被葬者の名前は忘れられ、そしてついにはそれが古墳であったことも忘れられたのです。

 一行は次に「猫塚」に到着しました。

≪「猫塚」≫

 猫塚は少林神社(写真の右手)の左となりにあって、若林区役所のうしろの若林文化センターのそのまたうしろの方にあります。直径7〜8メートルの円墳(前方後円墳の円墳部分の可能性あり)ですが、平らな地面に猫を祭ったほこら(写真の左手の奥)があり、今はどこが円墳か分かりません。

 猫にまつわる伝説は、阿刀田先生の文章によると、「猫しきりに雪隠(トイレ)にゆく奥方にからみつく。こうあれば男猫に相違ない。これがそもそも間違いの発端なり。亭主の士、焼き餅を焼く。伝家の宝刀、抜き放ちて猫の細首を斬る。一念は恐ろしい。猫、じゃまになる己の猫体から離れ得たので自由に飛行し、あわや一口にと期していた大蛇の喉笛にと食いつく。蛇は裏板裡に身を隠し、蛇頭だけを見せていたものであろう。……この猫は猫群のために気を吐き、猫にも猫ありと見得を切ったものである。」

 ほこらには招き猫などの猫の置物が多数供えられていました。

 さて史跡巡りの一行は「保春院」で解散しました。

≪「保春院」≫

 お寺の入り口に「玉虫三太夫の墓」という看板があり、それが次の写真です。どうも仙台藩は芦東山(幽閉)もそうですが、有為の士を弾圧してきたきらいがあると思います。弾圧されるような人を後世、有為の士というのか、はたまた無為の人が弾圧されると成長して有為の士になるのか、または、有為の人は多数いるのですが、その中で弾圧された人を後世の人々が不憫に思って有為の人と呼ぶのか、私も周囲の人々から弾圧されているので、すでに有為の士か?

  =追加=
 芦東山の名前が出たので、次に彼にゆかりが(ほんの少し)ある石碑を紹介します。それは下の写真の釈迦堂碑です。

≪「釈迦堂碑」≫

 「躑躅岡釈迦堂碑」(宮城野地区社会福祉協議会だより「地域のふれあい」の表紙に載せた文章です。)
 碑は旧県立図書館の構内入口南にあり、もとここにあった釈迦堂の由来を四代藩主綱村が記したものです。ツツジは正しくはこう書き、榴と書くのは誤りです。この碑に関する逸話を紹介します。今から3百年前、当時伊達領だった現在の大東町から来て仙台見物をしていた母と子がこの碑の前を通りかかり、その子が母にこの碑文を読み聞かせていました。たまたまその様子を見た仙台の商店主が一三歳のその子の学力に驚き、母親に子供を仙台で勉学させるよう奨めました。その子供が後に養賢堂儒役(教授)になった芦東山です。しかし彼は学生の座列を、親の身分によらず長幼の順にすることなどの改革案を出し、五代藩主吉村によって免職・幽居となりました。釈迦堂は現在、考勝寺に移り、岩手県大東町に芦東山先生記念館があります。

 

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