日露戦争「戦役紀念」碑とつつじが岡
 
(「仙台郷土研究会」平成11年12月)
 
加藤純二

 仙台市の若林区役所あたりから七郷堀は北の方向へ向かい、貨物線にそって新寺通り(県道荒浜原町線)の陸橋(薬師堂橋)の下をくぐる。くぐると約30メートル先の右手の堀端の上に小さな碑(高さ約70cm)がたっている。貨物線をはさんでちょうど向かい側に、「陸軍省用地」という石の標柱が現在もあり、宮城野原練兵場が近かった。七郷堀へは訓練兵が洗濯や馬の世話にやって来たという。
 
 碑の前面には「戦役紀念」と彫られ、その左脇に「河内中佐書」、右側面には「明治三八年八月下旬」、左側面には「■充大隊建之」と彫られている。
 


日露戦争「戦役紀念」碑
 
日露戦争「戦役紀念」碑

 明治38年というと、1月1日に旅順のロシア軍が降伏し、3月1日から10日まで奉天会戦、4月27、28日が日本海海戦が行われた年である。
 
 河内中佐については、『歩兵第四聨隊史』(1) によると第13代、第15代の連隊長をした河内(かわち)禮蔵という人だと思われる。上記『聨隊史』の巻頭には、彼自身が明治38年8月下旬に記した「歩兵第四聨隊王富嶺攻撃図」、「同紅土嶺攻撃図」への二つの説明文があり、本文中にも「歩兵第四聨隊三城子山攻撃図」、「●子溝夜襲図」への説明文も彼が記している。
 
 
 第12代連隊長・吉田貞中佐は夕張嶺の夜襲で戦死した(明治37年8月26日)。河内中佐は図の説明文の中に「余ハ吉田連隊長ノ後ヲ承ケテ光輝アル軍旗ヲ擁護スルコトヽナレリ」と記している。
 
 歩兵第四聨隊の帰国の時期については、「明治三八年十二月十日住み慣れたる異郷の宿営地を出発し行軍により鉄嶺に集中し同十五日鉄嶺発車鉄路大連に向ふ……同一六日大連に到着……十二月二十七日より同三十日に亘り逐次仙台に凱旋直ちに復員となる」と書かれているので、明治38年の年末のことであろう。
 
 「紅土嶺攻撃図」の河内中佐の説明文の最後には、「余モ又負傷ス」とある。その時の様子については、明治38年2月27日に始まった大訂子山東北高地の戦闘で、「この時第三大隊(二中隊欠)は勇敢にも大訂子山東北稜線を横断して、北方堡塁に肉薄し、火力を極めて敵の右側を猛射し、河内連隊長は旗手に軍旗を保護せしめて、第二大隊の線に行って、しきりに士気を鼓舞しつつあったが、忽ち重傷を負ふて倒れ、神戸少佐代って連隊を指揮した。……」と描写されている。また『聨隊史』の巻末には連隊歌が載っており、その第三番に、「三月一日紅土嶺 防御厳しき嶮要を 奮戦遂に攻略し 再び感状得たりしが 河内中佐は負傷せり 逃るヽ敵を遁さじと 追撃昼夜を重ねつヽ ……」と、歌詞の中に彼の名前が見える。
 
 以上が『歩兵第四聨隊史』に見える河内中佐についての記述である。「戦役紀念」碑に「明治三八年八月下旬」と彫られているが、8月には連隊兵士はまだ帰国していない。しかし8月10日には英国ポーツマスにおいて日露講和会議が始まっている。『聨隊史』に彼が記している説明文はすべて8月下旬と書かれているので、彼は戦闘が終わり、記憶が新しいこの時期に、戦闘場面の絵の説明文を書いたり、記念碑の揮毫もしたと考えられる。
 
 少し話がそれるが、日露戦争で日本軍が攻めあぐみ、最も多数の死傷者を出したのが旅順要塞への攻撃であった。この時、乃木将軍を救ったのは児玉源太郎(満州軍総参謀長)で、彼の指揮で二〇三高地はわずか4時間たらずで陥落した。小生が調べたかぎり、どの戦記を読んでも出てこない逸話がある。それは次のような長尾半平の話(2) で、彼は台湾において児玉のもとで働き、のちに日本国民禁酒同盟会長となった人である。児玉が満州から旅順に行くまで、乃木の指揮による3回にわたる総攻撃も、28センチ榴弾砲による砲撃も、ロシア軍を制圧することができなかった。
 
 「ある夜のこと一人の露軍の下士は、ひそかに我軍に降を乞ひ、しきりに酒を飲ませてくれと頼んだ。そこで(児玉は)酒に酔わせて敵情を探るのも至極妙ならんとの考えから、その下士に充分酒を与えて見たそうであったが、段々酩酊してくるに連れて次のようなことをしゃべり出したのであった。……と要部の位置はしかじか、照尺の度合はこれこれと手を取って教えて貰った様に分った。……我軍の打ち出す弾丸は、残らず要塞の急所に命中した。さすがの難攻不落も一とたまりもなく、瞬く間に陥落することになったのである。」
 
 榴弾砲の榴はザクロ(石榴)のことで、この弾丸の中には小さな弾丸がザクロの実のように入っている。別名、「人馬殺傷弾」と呼ばれていたという。日露戦争の旅順要塞の攻撃に威力を発揮したこの榴弾砲の「榴」の字が、歩兵第四連隊があった「榴ケ岡」にその一字を残している。しかし正しくは「ザクロガオカ」と読むべきである。古くは「躑躅岡」と書かれていたというので、誤字はやめて、せめて「つつじが岡」とひらがなで書くべきだと思う。  
 それはさておき、日露戦争で徴集され、多くの戦友を旅順、満州の地に埋葬して帰還した兵士は、この「戦役紀念」碑の前で何を思ったことであろう。東北地方はこの年、凶作に見舞われている。
 
 現在、碑の背後には民家が並び、排水のパイプが堀に突き出ている。小さい碑ながら、この地に住む我々は、これを貴重な文化財として、もう少し大切に扱わなければならないのではないだろうか。

文 献
 
(1)「歩兵第四聨隊史」昭和49年,重陽会発行.
(2)「禁酒叢書」長尾半平著,昭和3年,日本評論社.


 

ご  報  告

宮城野区歴史説明板設置発起人会    

 七郷堀、お仮屋跡、日露戦役碑の説明板設置のための募金活動を平成13年3月から行って参りましたが、ようやく平成16年10月末、宮千代一丁目の七郷堀の脇に、右の写真のように立派な説明板が設置されました。ご寄付いただいた皆様のお陰と深く感謝いたします。
 
 この説明板では、七郷堀について、仙台市博物館のご好意で「仙台城下絵地図」が、また、お仮屋跡については宮城県図書館のご好意で五代藩主伊達吉村公の「宮城野遊覧之記」がアルミ板に最新技術でプリントされ、簡単に解説されています。
 
 日露戦役碑については説明板に「上流100メートル、堀の東側にあります」と記されていますが、なかなか見つけられない方もおられるようです。念のため左下に写真を掲載しておきます。日露戦争では、旅順の戦いで予想外に多数の戦死傷者が出て、補充兵が召集され、七郷堀に隣接していた陸軍省用地で訓練を受け、旅順、奉天へと向かいました。戊辰戦争、西南の役、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦と、戦争が起こる度に犠牲者の数はうなぎ登りに増加しましたが、生きて帰還できた兵士の心境は如何なるものだったのでしょうか。日露戦争後、帰還した兵士らによって建てられたのがこの日露戦役碑です。
 
 お仮屋跡は宮城野原が自然豊かな原野であったことを偲ばせてくれます。七郷堀は広瀬川の水を導き、海寄りの東部地域の水田を潤すと同時に、この地域に住む人々の農機具や牛馬の洗い場・水のみ場、そして洗濯場、子供たちの遊び場であったことを思い起こさせます。
 
 ご寄付いただいた皆様に重ねて御礼いたしますとともに、採算を度外視して説明板を作って下さった宮千代三丁目の有限会社「仙台写真工房」、また、説明板の設置を許可して下さった宮城野区役所、仙台東警察署に感謝いたします。

[発起人]
  宮千代一丁目町内会長 星川勇、
  仙台郷土研究会前副会長 高倉淳(同二丁目)、
  同会員 佐伯昭夫(同三丁目)、加藤純二(同一丁目)

 

 

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