「さんさ時雨」

「東郊史跡めぐり・現代版」

 飛鳥・奈良の時代から、宮城野原は陸奥(みちのく)につながる通り道でした。行き来する人々にとって、遠い都や近い多賀城に思いを馳せ、詩情をかき立てられた場所だったようです。そのせいか、和歌に詠み込まれた歌枕が多い場所です。

 昭和11年6月7日、河北新報社の主催、仙台郷土研究会の後援で、「東郊史跡巡り」が行われました。当日は二百余人が集まり、徒歩で史跡踏査を行いました。その時の有様を阿刀田令造先生(旧制二高校長、仙台郷土研究会の創立者)が『仙台郷土研究』(昭和11年7月、第6巻7号)に書きしるしています。平成11年の今からは63年も昔のことですが、生き生きとした描写は、郷土のことを知りたい、伝えたいという人々の心理に昔も今も変わりないことを示しているように思われます。私はこの史跡めぐりを、新しい写真をもとにして、このホームページ上で再現してみようと思います。

 「東郊」とは仙台市の東の郊外ということです。仙台駅を「賑やかでない方」の東口へ降り、そこから海にかけて広がる一帯を指します。定義はともかく、伊達政宗が城下町を作るまでは、現在の「賑やかな方」の一帯は原野で、こちら側一帯の方が古代から開かれた地だったのです。どこまで紹介できるかわかりませんが、少しずつ写真を撮りながら、記述を進めていきます。

≪宮城野八幡神社≫

 当日皆が集まったのが、乳銀杏の木の周辺でした。現在、宮城野八幡神社が乳銀杏の大木に隣接しています。この神社はもとは今の宮城野原総合運動場の中にあったのが、戦災で焼失し、昭和27年にここに移転したものです。神社の土地を提供したのは永野家で、神社の右となりにその入り口があります。乳銀杏はその奥の永野家の邸内にあります。神社の写真にある中央の大木(高さ32m)がそれで、枝から垂れ下がった根が乳房のように見えます。樹齢は千年を超えるそうです。この木にちなんで、このあたりの町名を銀杏町と言います。

≪乳銀杏(ちちいちょう)≫

 『東郊史跡巡り』には「……永野氏班白髭(はんぱくせん)を長うして大銀杏樹下に立つ。説明せようとてである。樹と人、似合うのである。樹の精が満悦してぬけ出したかとさへ思へるのである。……」とあります。永野氏とは栄助翁(黄葉村荘主人)で、有名な文人でした。また槍の名人でもありました。栄助翁には郷土史学の名著『宮城野の枝折』という著作も有ります。

 次いで皆が行ったのが八幡森。神社があったあたりは当時は森でしたが、現在は自転車競技場になっています。仙台市で八幡神社というと、どんと祭で有名な大崎八幡神社を指しますが、実はそちらは伊達家が仙北の田尻町から運んできた神社で、こちらの宮城野原八幡神社の方が地元に密着した古い神社です。

 伊達氏が来る前はこの地は国分氏が領有して、その本拠地は今の薬師堂、昔の国分寺のあたりにありました。伊達の勢力が伸びるに従い、国分氏一族は主戦派と和睦派と別れ、結局、主戦派は去り、和睦派の代表の永野氏が伊達氏によって宮城野原一帯の野守(のもり)を命じられました。国分氏一族は城下町の一角に移住させられました。それが現在のネオン街「国分町」です。そこに舞う蝶や蛾の一部には伊達氏によって分断され、ちりじりにされた国分氏一族の怨念が乗り移っていると思います。実際、私の友人などは、ネオンと蝶に誘われ、蛾に囲まれ、請求書に追われています。それでもあの界隈になぜか足が向いてしまうらしいです。怨念にとりつかれているとしか考えられません。

 それはともかく、史跡巡りの一行は次いで「鈴虫壇」へ向かいます。

≪「鈴虫壇」の碑≫

 一行は原の東端、太田氏邸に着き、説明を聞きました。『東郊史跡巡り』には「……主人は太田氏、聞いたままと、断って謙遜に話を運ぶ。……藩政時代、お姫様などといふ辞を何人も使ったのである。そのお姫様が秋の清遊をなさる。鈴虫もよし、萩見もよし、その足場が大杉林中の土壇なのである。」

 続いて、井上氏という御仁が飛び入り説明。「お姫様はお駕籠、第一流老女は駕籠をぐるりと取り囲む、第二流、第三流と遠い距離に幾群(いくむれ)もつながる、その群尽きて男の群。お侍はこの日はさぞつまらない顔をしたであろう、お察ししますよ。女とあっても警護の任、九寸五分(懐剣のこと)を胸にした、手裏を、長刀を物々しく準備したのであるから、いかに美装厚化粧をしていても、とても馴れ親しめるものではなかった。行列はさすがに整然、又、平日の練習もあって、歩調は敏速、京都島原の花魁(おいらん)の行列とは比べてはいけないものであったらしい。通路の警護は厳重、庶民は水垢離(みずごり)取っての念願でも、ご本尊を拝めたものではない。御脚部を拝めば果報者といっていいほどのもの、隔世の感、隔世の感。……」

 上の写真にある碑は最近、宮城野区が「南宮城野公園(通称、汽車ぽっぽ公園)」の中に作ったものです。碑には土壇のあった場所が地図に書き込まれています。しかし私が、上記の文中の「太田氏」の息子さんの妻・太田しづかさん(故人)やこの地区の高齢者から聞き出した場所はそれと少し違います。それは「昭和紙工の会社の建物の東南数メートルのところ」です。

 戦後、かすかにその跡をとどめていた、鈴虫壇も街道も住宅地に変わり、今、鈴虫は草むらならぬケースの中で鳴いています。隔世の感、隔世の感。

 

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