「つつじが岡を歩く」
宮城野原の西側にある一段と高い岡が「つつじが岡」です。平成12年8月、つつじが岡の突端から東南の宮城野原を見下ろして撮ったのが次の写真です。昔は一面の野原だったのが、今は商業・住宅地になり、多数のビルが建っています。
≪つつじが岡から宮城野原を見る≫
ここでつつじが岡と日露戦争に関する、私が気づいた一つの小さなことを書きます。
仙台市ではつつじが岡を「榴岡」と書きます。しかし榴、石榴はザクロと読み、「榴岡」は「ざくろが岡」と読むのが正しい読み方です。ツツジは躑躅と書き、実際に武田信玄がいた山梨県のツツジガサキジョウは躑躅崎城と書きます。仙台でも古い文献では「躑躅ケ岡」となっていますが、いつの間にか、間違いが起こったと考えられます。
私がこれに気づいた理由は、ある高齢の患者さんと、日露戦争のことを話していて、「榴弾砲」という弾丸のことについて説明を聞いた時です。その元兵士は「榴弾砲って人馬殺傷弾っていうのっしゃ。玉が飛んできて着地したとたんに破裂して、細かな玉があたり一面の人馬を殺してしまうのしゃ」というのです。戦場では普通の大砲が飛んでくると、コンクリートや地面に大きい穴を作って、彼はその地面の穴へよく逃げ込んだそうです。砲弾で出来た地面の穴には、再び砲弾が飛んでくることはないはず、という戦場生活の知恵で、それによって彼は戦争を生き抜いてきたというのです。「榴弾砲はザクロの実のようにできている」と聞いた時、「あれ、榴弾砲の榴って、ツツジのことでなくって、ザクロのことなんだ」と分かったのです。そこで、明らかな漢字の間違いであることを知り、せめて「つつじが岡」とひらがなで書くべきだと思いました。
ちなみに次の写真は、現在つつじが岡公園の中にある「歴史民俗資料館」です。この建物は戦前の陸軍第二師団の兵舎でした。
≪「歴史民俗資料館」≫
次の写真はつつじが岡の南西にある天満宮です。岡の斜面を利用した石段の奥に鳥居があり、その額には「躑躅が岡天満宮」と書かれています。元文部大臣・愛知揆一書とあります。さすが文部大臣、誤字は避けたようです。
平成14年6月13日の朝日新聞「花おりおり」という記事に次のように書かれていました。
「ツツジの漢字躑躅(てきちょく)はレンゲツツジのなかまをさす。漢字の木は木偏がつく。ツツジも低いが木である。それが足偏なのはなぜか。躑は短く進む、蜀はカイコで、躅はとまる。つまり、よたよたした歩みをいう。レンゲツツジにはアセビ
のように毒を含み、食べると家畜も足をとられてしまう。」(文:湯浅浩史)
これでツツジという漢字がなぜこのように難しい漢字なのか、長年の疑問が解けました。
≪「躑躅が岡天満宮」≫ 石段を上がって、参道を進むと、社殿があります。その手前の右側に牛の石像があります。次の写真がそれです。 ≪「撫で牛」≫ 「撫で牛」という説明板が石像の後ろにあります。そこには次のように書かれています。 ≪戊辰戦争関係の碑≫ つつじが岡天満宮の境内には数多くの石碑がならんでいます。それらの多くは句碑です。芭蕉がここを訪れたため、その後ここに句碑を次々と建てたのだと思います。それぞれの句碑には説明板がついていて分かりやすいのですが、ところどころに、説明板がついていない碑があります。句碑よりふたまわりほど大きい碑が三つあり、それらは戊辰戦争に関係があるものです。以下、小生が調べたことを紹介します。 1)「星恂太郎君碑」 神社の鳥居をくぐると広い境内があり、社殿の手前の左側の薄暗いところに、巨大が碑がひっそりと立っています。子爵榎本武揚題額、大槻文彦撰文、明治二十九年十二月とあります。この碑文を読み下した資料が手元にないので、ここには、『仙台人名大辞書』を参考にして、彼がどんな人であったかを紹介します。 ≪「星恂太郎君碑」≫ 「ホシ・ジュンタロウ 志士。」「人となり短小精悍膽気あり」というので、小柄だが、肝っ玉の太い人だったらしい。「幼より武技を好み、慷慨奇激、気を以て人を凌ぐ、人その狂を罵る。恂太郎曰く、人言当○(=人の言っていることは正しいと)、自ら忠狂と名く、時に外事日に逼り、攘夷開国両党互いに相○く。」 ≪星恂太郎碑・お墓≫ ≪「二関源治碑」≫ この碑は境内の社殿に向かって右手にあります。 以下は源治の縁者・佐藤まさこさん(仙台郷土研究会会員)がこの碑文を口語訳したものです。高倉淳先生を通じて資料をいただきました。(平成12年11月) 「我が仙台藩戊辰の役に際し、出兵屈強に西軍に抗せし者三人あり。星○(ジュン)太郎、細谷直英、二関源治である。三人は性格才能は異なるが、意気盛んで忠義の誉れをたてた。源治君だけが北海に戦死した。その志は悲しむべきである。旧友針生惣助、中島高、細谷直英らが相談し、仙台城の東、榴岡に碑を建ててその稀なる忠節を顕わそうと君と親善のあった私に碑文を求めてきた。
士五百を得て 生死を同じうせんと誓い 注:田横――斉王のことで、五百人の部下と共に逃れ、漢の高祖に許されたものの、彼に仕えることを恥じて自殺した人。紀元前200年ころの話。 ≪「額兵隊 見国隊戦死弔魂碑」≫ (続く) 宮千代加藤内科医院(仙台市)のホームページ
「菅原道真公は、845年承和12年丑年にお生まれになり大変牛を愛され日本の為に活躍されました。そして延喜3年2月25日太宰府にて薨去されました。そのため天満宮に於いては牛を使神として牛の像を祀り菅公の御遺徳を敬慕致しております。御参詣の皆様、この牛を撫で菅公の御徳をお称え下さい。」
仙台駅の東口を降りて、つつじが岡方面へ歩くと、やたら、予備校があります。勉学にはげむ若者が集うのは、近くにこの天満宮があって、学門の神様が控えておられるのと無縁ではないのでしょう。
毎年、元旦の元朝参りには、受験合格を祈る学生、予備校生がこの神社に集まります。ものすごい人数で、石段から参道に並び、社殿でお参りするのには長い待ち時間があります。そこで手持ちぶさたの人々に撫でられるのがこの「撫で牛」です。あまりに多くの人々に撫でられたため、石はつるつるになっています。
小生は不思議に思うのですが、受験が不合格になって、参詣の御利益がなかったと、撫で牛に乱暴を働いたり、神主さんに賽銭の払い戻しを請求したという話しを聞いたことがありません。
彼ははじめは攘夷派に属し、開国派の「藩老」只木土佐の暗殺を計ったが、逆に諭され、その説に服し、その後、脱走して志士と交わり、横浜で米人に洋兵学を学びました。
戊辰戦争が起こると、藩からの要請で、仙台に帰り、藩士の少壮者1000人あまりを募り、洋式調練4ヶ月で「額兵隊」を組織しました。兵糧弾薬を集めていざ出兵というところで、藩の方針が変わり、奥羽列藩同盟が瓦解してしまいました。
恂太郎は黒川軍宮床村に待機していたのですが、ちょうど榎本武揚が率いる艦隊が松島湾に停泊し、恂太郎は同士250人を率いてこの艦隊に乗り込みました。
五稜郭が陥落し、榎本軍が降伏すると、彼はしばらく獄中にあり、のち、許されて開拓使に仕え、明治四年、製塩場の建設などをしたそうです。その後、官を辞し、明治九年、仙台で三七歳の若さでで死去しました。彼のお墓は、東照宮の近く、北六番丁の「萬日堂」にあります。次の写真がそのお墓です。
文書によると君は姓を二関、○(イミナ)を照忠と云い、源治は通称である。父の○(イミナ)駒治、母は大内氏、代々藩の大番隊士であった。君は八才で父を亡くし母に育てられた。非常に勤勉で家は貧しくともめげずに孝養を尽くし武術を学んだ。かつて小役人になったことはその志ではなかった。
奥羽の戦いは夏から秋にかけて藩論が一変し戦いを取りやめて。この時榎本釜次郎、大鳥圭介等は幕府の遺臣として我が藩に加わり北海に遁(のが)れた。○(ジュン)太郎等も同じである。君は慨然として曰く、藩が士を養いし三百年はこの日のためであると。同士を集め五百余名を得、「見国隊」と号し、君は隊長に推された。桃生郡船越村に駐屯していた時、丁度西軍が仙台城に入り激徒を捕らえんと攻めて来ようとしていた。君はこれを偵知し人を横浜に遣し(つかわ)し、英国商人威氏の船を雇い、衣服食料武器等を満載し兵を率いて北海に行き榎本等の軍に加わった。大鳥圭介は千代岡を守り、西軍と大川村で戦った。連戦数日の後大森浜で大戦となり、両軍とも健闘し君は人々を励まし戦い弾丸に当たり倒れた。そして叫んだ。「私はこれまでだ」と。兵達が五稜郭に担ぎ入れたが傷は深く翌日遂に逝った。時は明治二年五月十二日である。天保七年十月七日生まれ、享年三十四才。五稜郭に葬られ、部下達は哀慕し涙せぬ者はなかった。
後藤氏を娶り(めとり=妻をもらい)二子あり長男忠之進が家を継ぎ、一女宏は高橋今朝三に嫁した。君は容貌揚がらず一見婦女子の様であったが仲間はこれを辱めはしなかった。人々には臆病の様にも見えたろうが私は心ひそかに気の弱そうなことなど疑わなかった。その毅然とした点を考えずに見られたのだろう。顧みる君は私より一歳年長であり、幼い頃より一緒に藩校に通い長じてもその交わりは変わらず、
戊辰の役頃、私は当事者に嫌われ、何ヶ月にもわたり禁固され、釈放されて郷里に帰る途中松島で泊まった宿に蓬髪(=ヨモギのようにのびて乱れた髪)の者がいて私を手招いた。誰なのか直ぐには判らなかったが、良く見ると君であった。君が云うには「ことは既にここまで来た、何をか云わんやである、今北海に行かんとしている、ことが成れば再び会うこともあろうが、不成功なら血染めの草野があるばかりである」と袂を払って去り、永遠の別れとなった。いま碑銘の要請に接し幼き日に嬉々として遊んだこと、別れに臨んで激昂憤椀のあの有様を思い出す。その面影が彷彿とし首をたれて今昔を想うと思わず老いの涙が胸をぬらすが、涙を拭いてこれを銘す。銘に曰く、
絶海に骨を埋める 何と田横に似ているではないか
その英れた姿は凛然として 名声千年も続く
ああ若くして一人立ちし 死しても栄誉あり
正三位 勲一等 大鳥圭介
仙台 永沼 秀実