真山青果文学碑について

(「さんさ時雨」の最も古い録音です。五軒茶屋・対橋楼の高橋みつさん(明治39年生まれ)。上の左の再生ボタンを押して下さい。)

≪碑がある場所≫

 左の地図で緑色の矢印が若林区役所、細長い矢印が文学碑の場所です。近くに南小泉小学校、同中学校があり、この地域は小説「南小泉村」の舞台です。今では市街地化されて、昔の面影は全くと言っていいほどないそうです。右の写真は碑の場所から道路を隔てて若林区文化センター(中に若林図書館がある)を撮影したものです。

 大きな石に「羽虫は何故かは知らんだろう それでも飛ばずにゐられないのだよ」と刻まれています。出典は戯曲「頼山陽」と書かれています。碑の裏面に刻まれているように、真山青果の初期の作品に、この地域のことを書いた「南小泉村」という作品があることを知り、岩波文庫でそれを読んだことがあります。その時の感想は、「描写は事実かも知れないが、ここまで徹底して貧乏生活の醜い有様を描写したら、この地域に住む人々を怒らせたのは無理もない」と思いました。それでこの作家・真山青果の作品をそれ以上探して読む気にはなりませんでした。それにすぐ近くにある若林図書館には真山青果の作品がいくつか収められた文学全集はあったものの、戯曲「頼山陽」はみつけることができず、読むこともできませんでした。

≪碑の周辺≫

 区役所と文化センターを含む地域は明治33年以降、養種園(伊達家農場)があった場所で、江戸時代には伊達家の側室やお女中たちが住んでいたところです。その建物は現在、移築されて旧伊達邸・鍾景閣(太白区茂庭字人来田西、東北自動車道南仙台インター近くにあります。)というレストランになっています。養種園は平成17年、海沿いの荒井(地下鉄東西線の東側終点近く)に仙台市農業園芸センターとして移転しています。

 近くには薬師堂(江戸時代以前は陸奥国分寺跡)、若林城(明治時代以降は監獄)、保春院(お寺)などの古い建物があり、国道4号線のバイパスができるまでは茫々たる畑地と農家が点在した地域だったようです。

≪戯曲「頼山陽」≫

 数年前、真山青果の娘さんがやっていた劇団で長く仕事をしていたという方が来られたことがあります。その時もさほどの関心を持ちませんでした。最近、患者さんからこの文学碑について質問されたことがきっかけで、県の図書館に真山青果全集があることを知り、その全集の「頼山陽」の部分をコピーしてきました。頼山陽についてもどんな人物なのか、「幕末の京都の文人」くらいしか思っていませんでした。読んでみてびっくりしました。戯曲の切り口の鋭さ、封建社会に自由な生き方を求めた苦悩、それは戦後いまだ米国からの真の独立をなしえていない日本の姿とオーバーラップして、現代にも意味を持つように感じました。 宮城県図書館で河北新報のマイクロフィルムから文学碑建立を報じた部分を探し出しました。

≪文学碑建立を報じた河北新報の記事≫

 「業績たたえて建立 仙台 真山青果の文学碑」(河北新報 昭和四十八年九月二日)

 「羽虫は何故かは知らんだろう それでも飛ばずにゐられないのだよ」仙台出身の 劇作家真山青果の業績をたたえる文学碑が、仙台市養種園内に建てられ、その除幕式が 生誕日に当たる一日、娘の真山美保さん(新制作座代表)を招いて行われた。
 真山青果は明治十一年九月一日、仙台に生まれた。小説「南小泉村」で文壇に デビューしたあと自然主義文学の先駆者として活躍、昭和二十三年三月二十五日、七十一 歳で死去した。作品には「第一人者」「生まれざりしなら」や「平将門」「元禄忠臣蔵」など綿密な 歴史資料に基づいた情熱的な戯曲が多い。ことしがちょうど没後二十五年にあたり、「真山青果 文学碑を建てる会」(代表・一力河北新報社社長)が文学碑の建立を進めていた。碑は 茨城県稲田産の白い自然石。「真山青果」の自筆と戯曲「頼山陽」から引用した一節を彫り込んだ黒 みかげ石をはめ込んだ。高さ一・六メートル、幅二・八メートル、奥行き一・一メートルの大きさ。碑 の裏面には真山青果の業績もきざみ込まれている。
 除幕式は一日午後二時から養種園内で行われ、真山美保さんや知事代理の羽田企画部長、島野仙台市長、 津軽県教育長、石井宮城学院女子大学長ら約百人が出席した。「文学碑を建てる会」の一力代表が「数 少ない日本的文豪の碑が、出世作"南小泉村"にちなんだ場所にようやく建った。養種園を散策に訪れる 市民に遺徳をしのんでもらい、仙台の新しい文学名所にしたい」とあいさつ、島野市長に文学碑 の目録を寄贈した。新制作座員のコーラスが響く中で真山美保さんが除幕、同座員によって碑文が 朗読された。そのあと、真山美保さんは「父青果は死後二十五年目にふるさとの地に戻ってきました。いつまでも愛して下さい」と謝辞を述べた。
 除幕式のあと、仙台ホテルで祝賀パーティーが開かれ、美保 さんらを囲んで、青果の業績をしのんだ。写真があり、和服姿の美保さんが除幕した瞬間を撮影したもので、「美保さんの手で除幕された真山青果文学碑」と書き添えられています。

≪投稿記事≫

「真山青果文学碑」

 夕方の散歩
 夕方6時、診療を終えると、散歩に出かける。自動車でつつじが岡公園へ行くことが多い。あるいは自転車で近くの薬師堂へ行き、となりにある準胝(じゅんてい)観音堂のわきの公園で体操をする。たまに若林区役所うらの「ふるさと広場」へ行く。この広場をはさんで向かいが若林文化センター、この建物の中には図書館があり、夕方7時まで開いていて好都合である。広場には水路(七郷堀)があり、広瀬川の愛宕橋近くの堰からとった水が流れている。水路の上にかかる小さな橋を渡ると左手に、大きな石が土に半ば埋まっているようにして木の茂みに隠れている。それが「真山青果文学碑」である。小生も何度もここを歩いていて、しばらくは気がつかなかった。「真山青果ってどこの八百屋さんだろうか?」と思う人もいるらしい。その碑面の文章は次のようなものである。
 「羽虫は 何故かは 知らんだろう それでも 飛ばずには ゐられないのだよ」 戯曲「頼山陽」より
 小説「南小泉村」
 図書館に入り、真山青果の本を探してみた。文学全集にいくつか彼の作品が収められているが、戯曲作品は見つけられなかった。彼の文学界へのデビュー作品は「南小泉村」で、自然主義文学の先駆をなした作品であるという。区役所の近くには南小泉小学校や南小泉中学校があり、この地域のことを書いた小説である。碑の裏面には、明治11年生まれと書いてあるので、明治30年頃のことだろう。この地域の庶民の生活がリアルに書かれている。彼は医学部の学生であった。アルバイトで医院の「代診先生」として、この地域にあった分院で診察や往診をしていたらしい。貧弱な医学知識ですぐ隣の地域でピンボケ診察や往診をしている小生と似たところがあるので、まずこの小説を読んでみた。(お)百姓の貧乏生活、それも心根まで貧乏になった人々の姿が、これでもか、これでもかと実話風に描かれている。あまり気持ちのいい読後感ではなかった。事実、この小説が明治40年に「新潮」に初めて発表され話題になると、貧乏村としての南小泉村が全国的に有名になってしまい、「この地主はだれ、この小作人はだれ」と推定されたりして、地元の反発を買ったという。小生はしばらく真山青果の他の作品を読むことはしなかった。
 戯曲「頼山陽」
 患者さんで真山という姓の人がいた。数年前に真山美保という真山青果の娘さんが中心になってやっていた新制作座という劇団で長いこと俳優をやっていたという年配の男性(内海誠之助氏)が受診した。また最近、ある年配の女性患者さんからこの文学碑のことを質問された。これらのことがあって、たまたま県立図書館に行って郷土資料室にあった真山青果全集を見つけ、短編だったので、「頼山陽」を読んだ。こちらは小説でなくて戯曲であり、すべて会話体で書かれている。頼山陽についての小生の予備知識は皆無であったし、この戯曲にも頼山陽がどんなことをした歴史的人物であるかというようなことは何も触れられてはいない。しかし若い頼山陽の成長の苦しみが見事に描かれていると思った。これからこの作品を読む人のために、これ以上のことは書かないほうが親切であろう。
 小生は元俳優の方に電話し、久しぶりにお会いした。大変、喜んでくれ、文学碑を作ったときのことを話してくれた。内海氏のお兄さんとその娘さんも医院の患者さんで、なにかしら縁があるように思った。元俳優の内海氏は十歳で敗戦を迎え、高校生の時、新制作座の演劇を見て感銘を受け、早稲田大学にいた時、再びこの劇団の演劇を見て、入団したという。戯曲「頼山陽」では頼山陽の妻の父役を長くやったという。文学碑は仙台公演の準備のため営業担当者が仙台に来て、河北新報の後援を依頼するため局長の工藤幸一氏に面会したとき、碑を建てる話がでたという。その後、内海氏が交渉にあたり、劇団と河北新報社と仙台市(教育委員会)の三者が共同で「青果碑を建てる会」を作り、特にこの南小泉の地を選んで碑を建てたという。河北新報社が後援なら、除幕式のことが新聞に掲載されているはずだと思い、県立図書館のマイクロフィルムで、河北新報の昭和48年9月1日(建立年月日)前後の記事を調べてみた。すぐ見つかった。また翌日に工藤幸一氏の歌碑の除幕式が薬来山の昇り口で行われたという記事も載っていた。河北新報社は二つの文学碑の除幕式を二日連日で行ったことになる。
 青果碑の建立を報じた記事
(略)

 真山青果全集
 戯曲「頼山陽」に魅力を感じ、インターネットで検索し、全集24巻の古本が1万8千円で売られており、購入した。1冊あたり750円の安さである。最近、毎日これを寝る前に読んでいる。いろいろな意味で面白い。この作家は「南小泉村」で誤解されてしまう。彼は「南小泉村」から出発し、後に戯曲作家として大きく成長した。内海氏の言葉によれば、「明治維新という大きな社会変革の直後、士族の家の長男というしがらみの中で、有名な学校長の息子として、いったんは医学を志したものの、自分が進むべき道が医学ではないのではないかと、一見、怠惰な生活を送り、医学部を中途退学してしまう。そしてあてもなく、東京に出て、文学者の書生になろうと何人かの門とたたいたが断られた。」
・・・彼自身が羽虫だったのだ。何のために生きているのか、何をすればいいのか、分からなかった。同じことを頼山陽の青年期に見て、それを羽虫にたとえたのだ。この戯曲のテーマは真山青果の青年期でもあり、娘の美保さんは、戯曲のセリフからこの部分を選び出し碑に刻んだのだ。美保さんは演劇の世界に入るにあたり、父親の青果に反対され、激しく口論して家を飛び出したという。親との口論は、飛ばずにはいられない娘が自立しようとしてあがく娘自身のことでもあったのであろう。碑の除幕式のあとの祝賀パーティーで、「これで父に親孝行ができました」と挨拶したという。

 

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宮千代加藤内科医院(仙台市)のホームページ

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