「回顧八十一年」

"EIGHTY YEAR'S SURVEY" (Education and Temperance)

By Sho Nemoto

根本正

(これは昭和6年10月25日、銀座教会の東京禁酒会
例会に於ける根本正の講演を速記したものです。)

 只今、堀田先生より御鄭重なる御紹介を頂いて恐縮であります。この教会にあがりまして、第一に私が感激且つ感謝することは、ちやんときまりの七時半といふ時間、その五分前に、この教会の鐘が鳴ったことであります。そして今、鐘の音を聞いて、この鐘は普通の鐘ではない

 鐘の響きが・・・・・・我々に限りなき命を與ふる

ところの一つの音で、これを軽々しく伺つてはならんといふ感じを起しました。そしてこの鐘の音は、単に銀座地方、又この教会へおいでになる諸君のお耳にだけ達するばかりでなく、日本全国にも響くのであるといふことを思つて、私は心に一種の感激を抱いた次第であります。

 またこの鐘を伺ふと、佐竹作太郎君のお孫さんのことを思ふのでありますが、佐竹作太郎君は、実に恭謙のお方であつて大いに社会の為めに、真面目に尽くした人であります。この佐竹作太郎君が、電燈会社の社長をして居た時分には、五十円払込の株が七十五円以上もして居った、今日は僅かに三十円内外といふことで、その辺を考へても同君の手腕力量のほどがはかられます。又佐竹君は、自分で使ふところのものは、ごく質素倹約しながら、しかし出すべきところにはよく出した、電灯会社々社長時代、日本で最初に、自動車に乗つたことは今でも有名であります。その自動車の走る音が今日の様なブウブウでなく、如何にも気持のよい音楽を聞くやうな音であつたのを、私は近所に住んで居つて、よく今でも覚えてゐます。

 約三十年も前のこと、我々の同僚の一人が金の入用に迫られたことがあつて、同僚の者が集つて、佐竹君の所へ金を借りに行くことになりました。その時、選ばれたのが千葉県選出の有名なる代議士板倉中君、これは弁護士でなかなか立流な方今も尚壮健であるが、この方と私と二人が、金を借りに行く委員に選ばれた。まことにどうもよい御使ひではないけれどもとに角我々二人は、有楽町社宅へ行つて『佐竹さん、かういふ事で金がいるが五百円だけ貸してやつて下さい』と依頼しました。すると佐竹君ほ『御苦労さまです。貴方がたが代表して来られたのであるから、私も大いに考へませう。それで私が三百円をさし上げますからあとの二百円は、御両人で御出しなさい。』といふことで───どうもうまいやり方で───すぐ、その場で経済的に、また道理的に五百円のものを三百円に減らして実行されたことがあります。私共二人が二百円を出したか、出さなかつたかは覚えてゐませんが、とに角佐竹君のことと言へばこのことを思ひ出します。

 今日この教会にあがつて佐竹君のお孫さん勇太郎君の記念の鐘の音をうかゞつて、私は今更ながら神様に感謝し、佐竹君やそのお子さん、お孫さんのことを思ひ出した次第であります。

 又今日、この教会へあがつて、も一つ私が感謝することは、この教会には、たゞ今司会をなさつて下さつた掘田さんなどが御尽力の、東京禁酒曾の事務所があり、教会員御一同が熱心に運動して居られることであります。

 今より四十余年前、明治二十三年即ち

 帝国議曾の開かれた年から東京禁酒曾が発曾

されて、安藤太郎先生がこの教会に事務所を設けてこれを支配なさつた。実にこの教曾を通じて禁酒の事業が日本全国に広まつたのであつて、このことは日本の禁酒運動にとつて、実に偉大なる力であつた。而してこれは決して他の教会にはない、この教会のほこるべき歴史であります。

 いま一つ、この教会には福音英語夜学校があります。英語といふものは、今や世界の共通語で、是非何人もその心得がなくてはならん、この教会ばかりでなく何処の教会にも、英語の学校があつたら良からうと私は思ふのであります。どうしても世界の進歩発展、罪悪を除いて良いことを我々国民に植え付けて、本当の文明開化にするには、英語を通じてゞなければならんといふことを私は信ずるのであります。この福音英語夜学校を通じて立派になつた人が沢山ある、大貫龍城などゝいふ人は、この学校だけで海軍大佐になられました。

 私は、矢張り日曜学校へ参つて英語を学びましたが、或時、バイブルクラスへ行つて先生から大変よい事を教わりました。その先生はまことに良い先生で Miss Althea Bridges といふ英語の堪詑な方でありました。それは Let you light so shine before men, that they may see your good works and glorify your father which is in heaven (Math 5_16) これは日本の言葉に訳するなれば、どうもこれ程に意味が出て来ないのですが『人の前に汝等の光を輝かせ、さすれば人に汝等の良き行を見せしめ、天にある父を栄光にする』といふのであります。どうしても国民の光といふものを輝かせる、さうしてその光を見せる、その光によつて、汝等は世の光となれ、萬民の前に良い仕事をせんければならん。さうしたならば天の神様は喜ばれる、かういふ風のことを英語で教はつたことを、今尚忘れません。そしていつも感謝して居るのであります。

 日清、日露の両戦争の時の平和條約は、大部分英語でありましたが、当時はまだ日本人が英文でその條約をこしらへることが出来ない、日清戦争の時は、外務省のデニソンといふ外国人が皆こしらへて、さうして伊藤さんに渡し、又日露戦争の時も同じやり方で、小村大使がアメリカの方へ持つて行くといふ事でどうも、まだまだ日本では、本当に英語を使ふ人は多くないだろうと思ひます。新渡戸先生のやうな御方が沢山あれば至極結構であります。

 今晩、こゝにあがつて、私の八十一年の思ひ出を話すに当つて、この教会に禁酒曾の事務所が四十年以上も此処にある、又英語の学校もある、キリスト教を伝導する外に斯くの如く必要な事業をなさるといふことは、まことに神様が御喜びになることであらうと、深く感謝する次第であります。

根本正の生家(茨城県那珂郡東木倉村)

根本翁の生家(茨城県那珂郡東木倉村)

 さて、私の八十一年の回顧について話すやうにといふことで参りましたが、これから極く簡単に申し上げやうと思います。

 私は茨城県水戸近在の百姓の家に生れたもので、水戸の城下より一里程北の方の那珂郡東木倉村といふところが、私の生家のあるところであります。

 幼年時代即ち八十年もの昔のことでありますから無論学校などゝいふものはございません。ものを学ぶには村の坊さん、禰宜さん、御医者さん、かういふ人から学ぶ、私は私の祖父より学ぶといふやうなことでありました。今のやうな時計はありませんから、手習ひに──今日の小学校に行くやうなことを手習に行くと言ひましたが──その手習ひに行つて線香を立てゝ学ぶ。線香を一本立てゝ、この線香が燃えきらないうちは話をしてはならん、外見をしてはならん、といふ風に一生懸命に習う。本は御承知の通り四書、五経、史記、資治通鑑といふやうなものを読む。無論何だか訳のわからないものを読んだのであります。

 さうして私は十三歳の時分に両親の手を離れて、水戸の城下へ出て、専門に学問することは出来ないので、人の家来になつたのであります。私の親の従兄弟にあたる人が非常の学者で、豊田天功先生といつて史館の総裁であつた。史館の総裁といふのは大日本史の編集をする一番上の役人であります。この人は百姓からさういふ偉人になつた非凡の学者で、藤田東湖先生などより学問が出来たといふ位で、東湖先生のお父さんの幽谷先生の弟子でありました。その豊田先生のお父さんが昔は百姓、私の父も百姓、そして父は豊田先生と従兄弟であるから、私がそこへ家来になつて行つたのであります。その内に豊田先生が亡くなられたのでその息子さんの小太郎先生のお供をする。昔は、お父さんがなくなれば士族は五拾日間お墓参りをしたもので、豊田家はやはり士族であるから、小太郎先生の家来である私も一しよにお墓へ毎日行く。そして御供物をするのでありました。と言つたゞけではさう苦労もなかつた様であるが、どうしてなかなか苦労をしたものである。何しろ当時、私は拾三歳でしたが

 向ふは士族私は百姓で下僕即ちいはば家来で

家来といふものは下駄をはくことが出来ない。雨が降つても御供をする時は草鞋で歩かなくてはならん。また向ふから士族が来れば、こつちは下駄を脱いでお辞儀をしなければならん、といふやうに、非常に上下の違つた時代で、今考へると、中々苦しいことは多かつたのであります。丁度それは元治元年の子年で、王政復古より五年前のことでありました。

 その頃からだんだん王政御維新といふことになるのでありますが、その頃、水戸藩は勤王派と佐幕派の二つに分れて居つて、士族の内に絶えず争ひがあつた。子年即ち王政御維新より五年前には、勤王の人々が毎日々々、二十人三十人と殺された。磔などにもなつたりしました。武田伊賀守などゝいふ人が、水戸で戦をして敗けて加州金澤へ行き、更に金澤から京都へ出る途中、敦賀で三四十人といふものが、みな殺されました。敦賀にその人々の墓が今でもありますが、その墓は身体だけのもので、首は残らず水戸へ持つて来て、水戸の上町、下町で晒してお仕置になりました。さういふ様な血なまぐさい事件を私は度々見ました。こんなことは今日では見られないことで、そこらは八十年も永い間生きて居つた故に、今日お話をすることも出来るのであります。

 それから五年過ぎて明治元年辰の年、世は王政御維新となつた。そして徳川慶喜公が京都から江戸へ御下りになつて水戸へ謹慎といふ事になつた。さうすると今度は前と反対に、勤王派の方の勢力が盛んになつて、先の佐幕派の方が、今度は毎日々々磔になるといふやうなことになりました。

 その時分私はまだ拾七歳位の時でありましたが、役人といふわけでもないが、今日でいへば雇みたやうなもので、見習で南御郡方といふ役所へ出て居つた。

 一年の給料が籾拾六俵即ち二人扶持と金五両

とです。その時分、毎日々々佐幕派の磔を見ましたが、中でも惨酷だつたのは逆磔、どういふわけで逆磔になつたかといふと、これは普通の罪悪でないといふのであつた。佐幕派即ち諸生派の隊長の市川三左衛門といふ人は、三百石から三千石になつた人で、その人が佐幕派全盛の時分、水戸公を代表されたところの松平大炊守といふ人に切腹を申し付けた。そこで今度は、君を殺したといふ罪悪でやられるのだから、最も重い刑罰の逆磔になつたので、まことに今日から考へると、惨酷のことだが、さういふことが毎日の様に行はれました。

 さてかういふ物騒な時代に少青年時代を過した私が、今日こゝへあがつて、皆さんにお目にかゝることの出来たのは、実は英語の力なので、それはどういふ訳かといふことをこれから申し上げます。

 慶喜公が、まだ徳川将軍でゐらつしやる時分に、慶喜公の弟さんに徳川民部太輔といふお方が居られましたが、この方が即ち水戸の分家であります。その御子さんは今子爵になつて居られますが、この御方が、王政御維新以前にフランスの視察に日本使節として出張されました。その時の会計をやつてゐたのが渋沢栄一君であつた。その慶喜公の弟さんが、フランスへ行つて帰って来た時が明治元年の辰年の一寸前、御維新になるかならぬかといふ境目であつたが、その時、私は役所で、御郡奉行の服部潤次郎といふ人が、日本使節と一緒にフランスに行って帰つて来たのにあつた。其人がマッチをすつたところが火がついた。あの木の端に火がついたので、どうも言ひ様がないほどびつくりした。もう一つは時計を出して見せられた。それがビクビク動いてゐる。木の端から火が出るし、時計といふ今まで知らないものがビクビク動いてゐるし、どうもこれほ大したものだと驚いた。その時私は気がついたのであります。これはどうもよほど悧巧の人が作ったに違ひない。そしてその悧巧な人は横文字を読む国の人達である。これは

 どうしても横文字を読まなければ駄目である

と、今から六十六年前の御維新の少し前に痛切に感じた。その結果、私は英語を学びたいと思つた。英語を学びたいといつたところで、先生もろくにないが、昔長崎へオランダ語を学びに行つた人が矢張り水戸にゐる。それが二三人ある。其人々について学んだ。しかし英語を学ぶといつたところで、一年に二人扶持金五両位の扶持をとつて居るのだから、勤めの方もやらねばならん。それで忙がしいために二十六文字を学ぶに二週間も三週間もかゝるといふ具合で、とても思ふ様に行かない。遂に一大決心をもつて明治四年に私は東京へ出て来ました。

 それは丁度今から六十一年前のことであります。無論今の様に鉄道はない。東京へ出た翌年の明治五年に鉄道が出来た。新橋へ行つて見ると、明治大帝を初め大臣方三條、岩倉といふ方々がゐらつしやる。その方々の御風采はみな百人一首の天智天皇のやうな装束で、実に立派なものであつた。そんな時代に、私は東京に出て来て、無論第一の目的は英語を習ひたいのであつたが、何分金がない、どうかかうか都合をして、やうやく濱町の箕作秋坪の塾へ入り、更に小石川江戸川同人社の中村敬宇先生のところへまゐりました。

 中村敬宇先生は御承知の通り明治元年、すでに御維新の当時に、国で我々が読んだ西国立志編といふ本、スマイルのセルフ・ヘルプ(自助伝)、あの西国立志編を翻訳された方であります。今までの四書、五経、史記、左伝などいふ支那の本は、実は文句もわからずに読んだのであるが、この西国立志編は読んでスグ意味がわかつた。読んで見ると、昔の人は、勉強をするのに夜眠くなると股へ錐を刺したとか、蛍の光で本を読んだとかいふが、どうもイギリス人などは、それよりも一層、辛苦艱難をして勉強してえらくなつたことがわかりました。敬宇先生の文章が上手なのでもあらうが、とに角本の中に書いてある人物の熱心さといふものは一通りでない、全く生きてゐる。なる程、これ位勉強するなら、マッチも出来ようし、時計も出来るであらうと考へました。どうしてもこれでなくてはならんといふところから、私は、西国立志編の翻訳者たる中村敬宇先生の許へ行つたわけであります。

 中村敬宇先生はクリスチャンで、日本に於てメソヂストの説教を初めてやられた方であるが、その先生の初説教より今年は丁度五十八年目にあたります。YMCAで、先生の初説教の四十年記念式を行つたことがありますが、それからでももう十何年かすぎてゐる、近々六十年になると思ひます。

 中村敬宇先生の門に入つたことが非常に幸福

 になつた、といふのは第一に、キリスト教を信ずる様になつた、次に学問を充分することが出来た事であります。その時分、イギリス人のお雇ひ外国人が居りましたが、その人が、毎朝々々塾で学ぶ前に、一同に英語の聖書を読ませる。又お祈りをやらせた、その祈りの文は中村敬宇先生の作で、私の書いた「日々の力」といふ本の始めにも出して置きましたが、実によく出来てゐる。中村先生は英語がよく出来た上に、支那の学問の方も普通以上に出来る方で、英学と漢学の達人であるから、あのやうな立派な祈りの文が出来た、誰が読んでも、実に忠君愛国の至誠に動かされるのであります。それを毎朝毎朝読んで聞かされた。これが即ち私の神の御恵みをいたゞく最初の動機となつたのであります。

 尚こゝで中村敬宇先生の塾生当時の思ひ出について、一二話して見たいと思ひます。今の徳川貴族院議長も、その時分たしか十二歳で、やはり先生の塾へ通つて居られ、私とは所謂学友でありました。先般出した「微光八十年」といふ本にも徳川さんは「至誠一貫」といふ題字を書いて下さいました。

 中村敬宇先生は、人を使はれた場合は必ずお酬ひをされる方で、私がある時、写し物をたのまれた時も、それがすむと紙に包んで五百文位もらつたことがある。何も先生の仕事を手伝つて報酬をもらふつもりはないのに、しかも五百文、今日のお金にすれば五銭位だが、当時はそんなに少い金ではない、それをくれられた事がある。そんな風な方でありました。今思つても実にえらい人で、小石川の同人社の宿舎に居る時分は、他家の庭まで先生自ら掃かれる、又塾僕に決して小言を言はれたことがない、しかして先生が日本の文明に尽された功労といふものは、実に非常なもので、今日ならば文部大臣以上の実力なり、経歴なりを持たれた方でありました。

 一例をあげると、今まであまり人から顧みられない、尊敬されないところの婦人といふものを尊敬され、そして日本の未来は婦人と子供の力に俟たねばならんといふので、婦人教育のために日本最初の高等女子師範学校を建て、先生自らその校長になられました。又幼稚園といふものも、明治十一年に先生が始めてつくられたものであります。高等女子師範学校の一番最初の先生には、藤田東湖先生の姪で、今尚八十七歳の高齢を保つて、水戸に住んでゐられる豊田芙英子さんが選ばれました。当時の先生で、今生きて居るのはたつた二人、棚橋絢子女史と今申した豊田芙雄子さんとだけであります。要するに中村敬宇先生は、自分のやつたことに対し、自分一生の間に酬ひを決して求められない、限りなき命といふことに眼をつけられて、婦人の教育、子供の教育に力を注がれたのであります。

各時代の根本翁

各時代の根本翁(右は米国留学時代・中央は明治25年頃の
外務省の命により中央アメリカを探検せる時代・左は代議士時代)

 かゝるえらい先生のところで私はお世話になつてゐた、しかし金がなければ本も買へない、従つて充分学問するといふわけにいかない、それにどうしても一度はアメリカに行かねば駄目だ。その点でも金がなければならん、そこで本を買つたりアメリカ行きの旅費をつくつたりするために働くことにしました。で、私は一先づ中村先生の許を辞し、それからは

 或時は車夫となり或時は巡査となりして苦学

をしました。どうしても旅費を作りたいといふ一心からでした。牛込に藤田東湖先生の息子さんが居られ、私はその長屋を借りて住んでゐました。今の勧業銀行のあるところに東京府があつた、そこへ新調の人力車を曳いて行つて検査をうけ、それから毎夜、市中を曳き歩いて旅費をつくりました。勿論昼は学校へ行つて勉強をする、仲々苦しかつたが、その内志願して巡査になりました。当時の巡査は、二十一、二歳位の者としては、何よりも簡単に早くなれる仕事で、主として鹿児島と会津の人が多かつた。麹町に屯所があつて、そこで私も試験をうけて、いよいよ巡査になりました。一ケ月の給料は六円から十円といふのが一等巡査で、それが一番上であつた。その巡査になつてしばらく働いてゐたが、併しどうもこれだけではアメリカに行くのにヒマがとれる、何とかしなければと考へてゐると、丁度よいあんばいに、明治七年に外国郵便といふものが出来ました。その時分大蔵省駅逓寮には、お雇ひ外国人が七人も居つて.この人たちは総理大臣以上の月給をとつて居た。大臣は五百円位であるのに、アメリカから来てゐたブライアンといふ人などは七百円、その下が三百円、二百円といふ具合でありました。

 そこで外国郵便の方へ行つたならば、月給の方も今よりよいであらうし、それに第一、外国へ行くのに便利であらうといふところから、幸ひに私の国の人がその係にゐたもので、その手づるで入れてもらつたのであります。この国の人といふのは、島田三郎君の友人で水戸の加藤木先生といふ方、これがやはり仲々偉い人で、越後高田の前島密先生と懇意であつた。前島先生は中村敬宇先生同様、英語のよくできる方で、明治四、五年頃馬車に乗りまわしたのは、この人位でありました。とに角その人たちのお世話で、私は外国郵便の方へ入ることになりました。

 ところがこの時面白いことがありました。今度は月給もよくなつて、月に十円になつたのですが、何しろ当時の役人は仲々儀式ばつたもので、始めての日の勤めには辞令をもらふのに、どうしても燕尾服でなくてはならん、それでなくては辞令はもらへないといふのであります。けれども当時の私に燕尾服などある筈もない、それで栗田寛といふ人から借りて、それを一著に及んで出頭し、辞令をいたゞいた始末でありました。こんな様な、今思つても滑稽な様な有様で外国郵便の方へ出ることになりましたが、後に神戸に出張を命ぜられ、更に明治十年には横浜へ転任しました。

 横浜にはへボンの塾があつた、服部、石本、松村などいふ人々とゝもにそのヘボンの塾にゐたこともあります。そしてそこにゐて外国人に懇意になつて、その人から紹介の手紙をもらつて、遂に米国へ出かけることになつた。その時乗つた船は、たかだか三千噸位のセヌイ・オブ・ペキン号といふのでありました。即ち

 明治十年三月多年の宿望たる米国へ渡航した

ので、その時私は二十八歳、ほとんど三十歳に近い時のことでありました。さてアメリカへ行つてからの事だが、その時分あちらでいろいろの世話をして下さつたのが、安藤太郎先生を禁酒せしめた、日本禁酒運動の大先輩である例の美山貫一先生で、実によく面倒を見て下されたのであります。それで私は、二十八、二十九歳の二年間は向ふの小学校へ入つた。とても日本で、中村敬宇先生のところに五年や六年居た位では、向ふでは英語で口をきくことも出来ない。先づ小学校へ入つて二年、根本的に始めからやりなほしました。また中学校に四年、大学校に四年、都合十年間即ち明治十二年から始まつて明治二十二年までをアメリカで勉強し、それから欧州を経て日本に帰つてまゐりました。

 アメリカの小学校で学んだ時分は、朝晩は紹介先のバラストウ氏の家で働いて、昼間だけ学校へ行く。馬車の世話もすれば、庭も掃く、何もかもしました。そして小学校は九時に始まるが、行くのに十五分かゝる、多く仕事をすれば主人が喜ぶから、時間まぎはまで働いて、大急ぎで学校へかけて行くといふ有様でありました。それで小学校へ行つて、一番うまいのは水を飲むこと、この水の味はどんな御馳走を頂くよりもうまかつたことを今でも忘れません。そこに二年ばかり居つて、今度はオークランドのハプキンス中学校に入つてこゝに四年ゐたら休みの日には世話になつた人の手伝ひをしたりして、漸く中学の四年もすみました。最初、私がアメリカに行く時には、三年もやつたら帰るつもりでゐたが、三年や四年位ではとても、何にもわかりません。でどうしても今度は大学へ行かなければならん。大学に行くには、今までのところから三千哩も行かなければならんが、勿論知人はない。困つてゐると丁度御世話になつてゐた弁護士のバラストウといふ人が、ボルマントにビリングスといふ非常に艱難をして鉄道の社長になられ、又大学校へ何百萬円といふ寄附をした人があるが、そこへ手紙をつけてくれました。で私はビリングス氏のところへ出かけることになつたが、その時、ボルマントから百五十哩も向ふではあるが、是非ボストンへ行つて見たいと考へました、といふわけは、ボストンには、あの独立戦争の記念のバンカーヒルといふ塔がある。ヒルといつても小山ではない、塔であるが、その塔へ上つて、独立戦争の時分に、アメリカ人がどれだけ苦戦したかといふその実状をしのんで見たい、大学へ入るのはそれからにしたいと思つたのであります。さうしたならば、いくら自分が鈍くても、啓発されるところが大であらうと思つたので、旅費のないのを無理に工面をして、バンカーヒルの独立戦争の記念塔へ昇つて見たのでありました。ところがその塔の上に大砲が二三挺かざつてある、その大砲は即ちイギリスと戦つて、イギリスの大砲があたつて壊れたところの大砲である。これは、今でも皆様がおいでになれば御覧になれますが、それを見て成程、これでアメリカは独立したのだ、この意気で行かなければとてもいかんと、今まで本で読んだのが、いまかういふ実物を見ると、一層その感激が深い、バンカーヒルのモニュメントの

 破壊された大砲を見て非常な感激に打たれた

そして如何なる辛苦艱難も、アメリカが独立したところの精神をもつてやつたならば必ず出来る、といふ確信を得たのであります。この確信を得て大学へ入つたのであるが、幸ひに、恩人のビリングスといふ人が、私が必要なものを、ペンシル五銭なら五銭、十銭なら十銭と、ちやんと計算して書いてわたすと、たとへば私が二十五弗と書いてやると三十弗よこすといふ様に、必す五弗位は余計によこすといふ風にいたわつてくれました。この人は実に立派な、文字通り辛苦艱難を経て立身した人で、そのために私にも人一倍同情して助けてくれました。

フレデリック・ビリングス

フレデリック・ビリングス (Frederick Billings)氏

またその頃暑中休暇にはサンマー・スクールといふ宗教的の学校へ参りました。これは日本にもある夏期学校と同様のもので、私はそこに毎年行つて、夏の二ケ月を過しました。そこでやるお説教のうちではムーデーさんと言ふ人の説教が殊に良い、私は学校以外でもいろいろな演説を聞きましたが、私が聞いたうちではスコットランドのヘンリー・ドラモンド博士の説教とこのムーデーさんの説教とは実に立派なものであつたと思ひます。後にドラモンド博士の説教は翻訳して教文館で出版したこともあります。

 まあアメリカにゐる間には外にもいろいろのことがありましたが、私が居る時分に大統領ガーフイールドの死んだ時のことなどは、皆さんに八十年間の歴史の一つとしてお話してもよいことかと思ひます。ガーフイールドの殺されたのは、今を去ること四十六年ばかり前即ち一八八五年のことで、丁度夏のことですがピストルで射たれたのであります。何故射たれたかといふと、彼の学友にギトーといふ弁護士があつた、その人がガーフイールドにフランスの大使にしてくれと頼んだ時、ガーフイールドは『如何にあなたが学者であつても、あなたをアメリカ合衆国を代表する大使としてやるわけにはいかん』といつて立派に断つた。実にえらい。これが本当の忠君愛国である。自分の御機嫌をとるものゝ贔屓をするのでなく、アメリカ合衆国一億五千萬の国民のために、その学友の申出をはねつけた。それをギトーが怒つて、二三日過ぎると、ピストルでガーフイールドを射つたのであります。ガーフイールドは貧窮の家に生れ、お母さんが十一を頭に四人の子供を養つて、三度食べるものは二度、二度は一度といふ貧乏も貧乏、至つて貧乏人の子供であつた。ところがアメリカはフリー・エジユケーション、ナショナル・エジユケーション、即ち小学校は無月謝で誰でも教育をうけられる自由教育、貧乏人の子供でも立派になつて、遂に大統領にまで成つたのであると思ひます。而してその大統領になつた時に、所謂セルフイツシユでなく、公に国民のためにしなければといふので、遂に射たれて死んだのである。そして死ぬ時には、私はあやまりを以て成功するよりは正義を以て死ぬのが何より愉快だと、喜んで天国へ行きました。それを聞いて私なども、どうかガーフイールドの真似をしたいものと思ひました。こゝで特にお話したいと思ふのは、

 私がアメリカにゐる間に体得した四つの処世術

についてであります。

 第一は「神はかたよらず」といふ事で、これでなければ即ち私が百姓に生れたから百姓といふのでは立身出世が出来ない。第二は「受くるより与ふることは幸なり」与ふるにはどうしたら良いか、先づ与へるものを得るために働かなければなりません。銀行へ金を入れなければ銀行から金を出すことは出来ない。人に物を与へようとすれば、働いて金をとらねばならん、即ちウオルク、働くといふことをしなければならないのであります。第三に私が常に考へるのは「善を知つて行はざるは罪なり」といふことであります。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と言つてゐますが、しかしそれだけではどうも足りない。勇だけではいけない。キリストの教へは、善を知りて行はざるは罪なりといふ徹底したものであります。即ちガーフイールドのやうな人は、如何にも貧乏の家に生れ、しかも善を知つて行はざるは罪なり、といふ言葉の実行者であると、私は思ふのであります。ガーフイールドの死は即ち私が学校以外で学んだ主なるものゝ一つであります。第四はちよつとしたことだが、プーア、メーキス、リッチ即ち「貧は富を作る」といふことです。日本人は殊に、その辺を充分注意しなければならんと思ふのであります。さてその他にも学校以外で学んだことは沢山あつたが殊に感謝することは、禁酒についてであります。

昭和6年1月水郡鉄道開設記念として翁の銅像が茨城県大子町に建てられた。

昭和6年1月水郡鉄道開設記念として翁の銅像が茨城県大子町に
建てられた。写真は自分の銅像の前で熱心なる演説をこゝろみつゝある根本翁。

 其頃アメリカ四十七州中四州はすでに禁酒で私が居つたボルマント州も禁酒州でありました。宿屋でも酒を出さない。結婚式にも酒を出さないボルマント州に四年居つたのが、私の禁酒の動機となつたもので、その前にも明治十年の頃、横浜に居る時分に、松山高吉といふ人の禁酒の演説を聞いたことがあつたが、その時はそんなに大した問題ではないと考へたものであります。ところがアメリカへ行つて見ると、法律で酒を飲ませない州があるといふので、深く感激を覚えたのであります。日本でも近来、禁酒村が出来て居りますが、その村、その郡、その県、が禁酒するといふ風にだんだん大きくなつて、初めて国法となるのが順序だらうと思ひます。我が中学に居つた時分、その頃ほチヤイナ、インデヤ、エンド、ジヤパン等といつて、日本は支那、印度のその次位に見られてゐた。それがだんだん出世して今では文明国の仲間に入つて、五大列強の一つとか、或は三大列強の一つとなつたといふことは、これは即ち明治大帝が、世界の文明をお入れになつたゝめで、彼の五ケ條の御誓文には『広く会議を興し万機公論に決すべし』と仰せられてゐる。これはとりも直さず神はかたよるものにあらず、人間に差別はつけない、といふことで、五ケ條の御誓文は初めから終りまで聖書であると信じて居ります。皆様が御承知の通り、あの五ケ條の御誓文といふものは、高知の福岡孝悌子爵が勅命を奉じて筆をとつたのであります。一説には福井の由利公正子爵と二人で筆をとつたものとも言ひますが、この福岡子爵を出した高知は、中々我々にとつて忘れてならぬ土地であります。即ち王政維新の七ケ年以前に、フルベツキといふ宣教師しかも学者で思想家であるその人が、この高知に行つて聖書、即ち神はかたよるものに非ず、人間に差別をつけない、といふやうな教へを教へたのであります。そのために片岡謙吉などといふ立派なクリスチャンが出来ました。或は板垣先生等が出来た。板垣先生は『人の上に人なし.人の下に人なし』などゝいふことを言はれた方で、これはみな、神はかたよるものに非ずといふ聖書の精神に出づるもので、この精神が自然福岡先生の心の裡に宿り、明治大帝の勅を奉じたるものと、私は信ずるのであります。さて話が大分横道に外れましたが、とに角私が、議会に於て戦かつて、未成年者の禁酒・禁煙の法律をこしらへたのは、やはりアメリカにおいて学んだ結果なのであります。

 私が大学時代に布哇(ハワイ)で安藤太郎先生が禁酒し

て信者になつたといふことを聞きました。アメリカに居た我々が斯の如き意思堅固な人々のため、その新聞記事のため非常に肩幅が広くなつた。それですぐに、安藤先生に手紙を書いて、爾来懇意になつたのであります。この安藤先生の禁酒から我々が肩幅が広くなつたことから考へても、濁りをつゝしむといふことは極めて大切であると思ふ、一人の力によつてその国が亡びもするし又興りもする。一八八五年にカリホルニヤで支那人を拒絶する法律が出来た。これは支那四億の民の罪ではない。僅かに桑港(サンフランシスコ)に来て居る小数の支那人が、普通の人は夜は休み、昼は働いて勉強したりするが、その反対で、昼は博奕を打ち夜は労働をするといふ風に、アメリカの風俗を害するから、向ふ十ケ年間、カリホルニヤへ上陸してはならんといふことを一八八五年に州法できめた。少数の人のために四億の民が辱かしめられるのみならず、その隣に居る日本人もアメリカから、決して良い評判は受けない。反対に一人でもこの安藤太郎氏のやうな人が出来たため遠くアメリカに居る我々の肩幅が広くなつたのであります。次に、私がアメリカで感じたことで日本に帰国後尽力したことが、二つあります。

 私はアメリカで、二十九歳になつてから小学校へ入つたが、月謝は一文も出さなくてもよかつた。日本に居た時分には月謝を出さないといふことはなかつたのが、アメリカでは出さないでも、学校へ行ける、それはアメリカは国民教育をやつてゐるからであります。そこで私は日本へ帰つて、明治二十三年、帝国議会の開けた年に第一に何をしたかといへば、小学校授業料全廃に関する請願を出しました。第一回の帝国議会には私は落選しました。私の母はなかなか活動家であつて、私が帰る前に、地方の有志家の依頼で、すでに運動もやつてゐたらしい。しかし第一回、第二回、第三回とも落選したが、落選してもしなくてもそんな事は別問題で、小学校の授業料を全廃しない以上その国は立派にならない、アメリカがあんなに立派になつたのは、ガーフイールドやリンコルンのやうな人が出たからで、それは小学校の授業料をとらないからである。金持の子供ばかり学校へ行つて、貧乏人の子供は学問も出来ないやうな国は亡びる。といふ信念から、私は小学校の授業料全廃の請願をした、これは請願で効力はありませんでしたが、貴族院の方は水戸の殿様、衆議院の方は片岡健吉君を煩はしてやりました。がしかし間もなく私自身が議員になりましたから、今度は法律にせねばならぬと、そこで小学校授業料全廃に関する建議案を通過せしめました。それが通過したから、今度は勢を得て小学校教育費国庫補助法案といふ法律案を出した。小学校の教員の俸給は国庫が出さなければならん、大学校や専門学校は幾千萬人の内五百人とか、三百人とか小数の人が行くので、日本全国の子供の行くところではない。

 全国民子弟の学ぶべき小学校費は国庫支弁で

やらなければならんと考へた次第であります。これが明治三十二年に通過したが、その時国庫から出た金がたつた二百萬円、だがこれが年々増しました。帝国議会が開かれた時分は、日本全国の予算が八千萬円で、皇室の御費用二百萬円、その他大臣の給料も、巡査の給料も、残らずで八千萬円で事足りた。それが今日は十五億円に上つて居ります。従つて小学校国庫補助の方も、始めはたつた二百萬円であつたものが、一千萬円になり、二千萬円になり、四千萬円になり、今日では八千五百萬円といふことになつたのであります。この金は皆諸君の懐から出てゐる、出てゐるけれどもこれは即ち国のためである。日清戦争も、日露戦争も、小学校がなかつたならば矢張り支那やロシヤのやうに負けたかも知れない。ロシヤの方では日露戦争の時、兵士の内には、今自分が何処にゐるか、奉天にゐるのか、旅順にゐるのかさへ知らないものもゐた。大将の名前もわからん。甚しきに至つては誰と戦争をして居るのかわからんといふのもあつた。日本人はみな小学校を出てゐるから忠君愛国を知つてゐる。子供やお婆さん、お爺さんまでもステーシヨンまで見送る、慰問袋を送る。これは何のためかといふと、教育のおかげで忠君愛国でなければならんといふことをよく知つてゐるからであります。明治三十一年までは月謝をとつてゐたから貧乏人の子供は学校へ行けなかつたが今日はアメリカのやうに誰でも小学校へ行ける。昔は金のある地方ばかり良くなつたが、今日では北海道でも、沖縄県でも、山梨県でも、鹿児島県でも八千五百萬円を学齢児童の数によつて分配するのであるから、何処でも同じくよき教育をうけることが出来ることになつたのであります。これが即ち「かたよらぬ」といふことで、これは重大であります。議会で地租委譲といふ問題が起つた。地租委譲といふと、地租を国庫でとらないで各地方でとらせる。さうしてその地方々々で小学校教育に支給せんければならんといふので、それではその税の多い地方と少い地方で、大変の違が出来て来る、私は議会において、それに強く反対し政党より除名された一人である。キリスト教の言ふところの所謂愛、即ち神の愛といふものは、唯自分の子供、唯自分の親戚だけが良くなつたのではいけない。日本全国のものが良くならなければ、私の生命財産権利は保護されないといふことになるのでありまして、この地租委譲も大正十二三年頃、騒いだものですがこれを委譲して地方税にしてしまふといふのですから、なる程地方を助ける様で一応もつともでありますが、よく考へると、不公平を生ずる。例へば山国の山梨県とか鹿児島県とか北海道とかは、人口一人に就いて僅に二十銭、三十銭五十銭位の割合しか取れない。ところが之に反し、地租の多き県即ち滋賀県とか香川県などゝいふところは、一人に就いて三円五六十銭受る所もあつて、さういふ所では立派な教員も雇へるが、鹿児島あたりでは五十円の月給を二十五円にも減らさなければならない、これでは神はかたよらず、といふ聖書の精神に違ふのみならず、明治大帝の五ケ條の御誓文、廣く会議を興し萬機公論に決するといふ御聖旨にも戻る。かく考へて政友会に居りながら私はたつた一人で反対したのであります。同案は幸ひに衆議院は通過したが貴族院で否決されました。またそのために私は政友会より除名されたのでありますが、これは善を知つて行はざるは罪なり、といふ言葉を聖書で読んでゐる私には、一向後悔でないのみならず、除名の結果落選しても満足して居る次第であります。

禁酒家庭の好模範─繁栄の根元翁の御一族

禁酒家庭の好模範──繁栄の根元翁の御一族
(人間は年の高下にかゝはらず禁酒の家はいつも萬歳・根本翁作歌)

さてこの小学校教育費国庫補助法案が通つて、その後に未成年者禁煙法案と禁酒法案のためにつくしました。禁煙法の方は国民教育国庫補助法案通過の後で、一回で通過したが禁酒法の方はなかなか長くかゝつて通過した。即ち

 未成年禁煙法は一年未成年禁酒法は二十三年

もかゝつたのだが、何故禁煙法は早くて禁酒法は手間どつたか、煙草は貧乏人が売つてゐるのだから反対者が少ない。しかし酒はさういかない、酒屋は金持だから反対者も多く、それも強かつた。

 若しも私の子供が酒を飲み、煙草をのんで、不都合のことがあつたならば、納税者に対し相すみますまい。そんな子供には、私が年百年中、巡査に頼んで取締つて貰ふより仕方がない。それではいけないといふので、それ故未成年者禁酒法案、未成年者禁煙法案といふものを出したのであります。

 だから、どんな強い反対があらうとも、私はこの二つの法案通過のために戦つたのであります。幸に、今や両案とも通過して、それぞれ実績をあげて居ることは、実に悦ばしいことであります。殊に最近は、一歩すゝんで禁酒村、禁酒汽船、禁酒炭坑、禁酒工場、などが続々出来、我が大日本帝国が禁酒国になる日の、近き将来であることが予想されるに至つたことについては、私は、いま八十一年を回顧して感慨無量なるものがあります。

 どうか皆さんを始め、全国の同志とともに、一層の奮闘をして、この両法律の徹底を期し、一日も早く禁酒国達成の目的を貫徹せんことを切望して、私の話を終ります。

(昭和六年十月二十五日銀座教会にて東京禁酒曾例曾に於ける講演速記)


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加藤純二

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