「明治教科書疑獄事件と根本正代議士」

前編・興野義一先生の戦前の教科書蒐集(根本正顕彰会の会報第70号に投稿)

 平成24年5月27日の本総会で「明治35年の教科書疑獄事件と教科書国定化に反対した根本正代議士」という演題でお話をさせていただいた。この疑獄事件は教科書国定化案を生み、のちの小学校教育に大きな変化を与えた。この疑獄事件の真相、特に背後の政府中枢の意図と策略などについてはいまだ秘密のベールにつつまれていると思う。小生は教科書国定化案にあえて反対した根本代議士が実際のこの疑獄事件をどう見ていたのかに関心があったが、例によって根本正代議士は裏話を残していない。小生は、偶然、ある医師で、自分が受けた戦前の教育について資料を集めて研究していた方と会い、教えを受けることができ、今回の会報ではそれを前編として投稿させていただく。

 興野義一先生

 20年くらい前のこと、ある医療関係の集まりで年配の先生と名刺交換をした。「本職の方の名刺が今ないので」と渡された名刺の肩書きが「日本考古学協会会員」となっていた。それが興野義一先生で、仙台市の八木山の松が丘で内科医院をしておられ、かたわらというか、熱心さと業績では本業以上の、考古学、特に縄文土器の文様の編年的研究で有名な方であった。15年前、先生が77歳の時、前立腺癌と診断され、治療に専念することになった。かたわら、今まで集めた資料の整理に余生を送ることにしたのだと思う。その資料というのが大変な量で、診療所の後ろにあるご自宅は、玄関の外から客間は勿論、ローカから台所、トイレに至るまで、土器を始めとする蒐集品で一杯だった。近所にプレハブの倉庫を建てて、「興野考古館」と名付け、そこも蒐集品で一杯だった。
 小生は先生から葬式の弔辞を用意してくれと頼まれた。弔辞は先生の校正を受けてできあがったが、いつの間にか前立腺癌が治ってしまい、弔辞はパソコンの中に眠ったままとなった。先生はその後、再び研究、特に民俗資料の蒐集に取り組んでいた。ある時、お宅の玄関の壁に数着の軍服が掛かっていたので、小生が「この階級章はどんな軍隊内の地位ですか」と聞くと、先生はいろいろ教えてくれたが、「問題は階級章ではない。この布地をさわってみてくれ。南方で使われた軍服と満州など北方で使われた軍服では布の厚さがこれだけ違うんだ」という。軍服を着たことのある人の着眼点は小生のようなシロウトとは違うのだ。蒐集したあらゆる物が万事そのような先生独自の着眼点があった。先生は最後までお元気で、昨年暮れ、92歳で亡くなられたが、亡くなる一週間前にも息子さんが仙台市の東照宮で月1回開かれる骨董市に連れて行ったという。小生は約束どうり、葬儀で弔辞を読み、それを仙台市医師会報に掲載してもらった。

 先生の戦争体験と縄文文化の研究

 先生は昭和17年、第二次世界大戦の末期に、東北大学付属医学専門部を卒業され、すぐ南方戦線に応召され、悲惨な結末で知られる「インパール作戦」、次いで対中国「断作戦」に従軍された。そして敗戦・抑留生活を経て帰国された。先生は帰国の際、日記類などの所持品をすべて没収されたにも関わらず、ご自身の記憶をたよりに昭和50年、名著「一軍医の見たビルマ敗退戦」を出版された。数ある戦記の中でも、手書きの地図・絵図が約70点も含まれていること、記録が具体的で正確であること、当時のビルマやタイの原住民への民俗学的観察があることなど、後世に残る貴重な戦記である。
 昭和26年、宮城県栗原郡一迫町に診療所を開業された。先生の考古学への関心はこの一迫町における時代にイッキに高まり、当時まだ遺跡発掘が重要視されず、縄文遺跡が道路や建物の建設のため、ブルトーザーで破壊されつつある中、先生は夢中で遺物の収集と遺跡の調査をされ、研究に没頭された。そして『一迫町史』を始めとして宮城県の考古学業績集に多数の研究報告を残している。先生が収集された土器に描かれた縄文時代の文様の編年的研究は、縄文土器の文様についての教科書的な資料になっている。また先生は研究を江合川、北上川の流域にも広げ、特異な「北海道式」と呼ばれる土器群が古墳時代初期に下北半島から南下して宮城県北部に現れたことを報告し、「弥生時代末期に下北半島に足がかりをつけた北海道系狩猟民が、鉄器と農耕の本場の姿をまのあたりにみるべく、北上川を南下して江合川の線にがっちり固められた前方後円墳群に象徴される先進文化圏に到着し、北海道的生活様式を守りながら、ここで土師器の製作や製鉄などの研修に一時従事し、再び下北半島から北海道に戻った」という可能性を指摘された。

 先生の戦前の教科書蒐集

 七年後、先生は仙台市八木山の松が丘に診療所を移し、多忙な診療のかたわら、考古学・民俗学の研究を続けられた。小生は今から23年前ころから茨城県選出の帝国議会の衆議院議員・根本正(しょう)のことを調べていた。彼は水戸市の隣町の那珂町(現在は那珂市)の出身で、「大日本史」の編纂をする彰考館の総裁・豊田天巧の家僕をしていたことがあり、いわゆる水戸学を学んで成長した人である。彼のその後の経歴は省略するとして、一つ、不思議に思ったことは、彼が後に衆議院議員になってから、明治35年末に起こった教科書疑獄事件の直後、教科書の国定化案が議会に出されたとき、ただ一人これに反対したことであった。 結局、教科書が国定化されると、義務教育の中で、天皇の神格化が進み、次第に国民全体にそれが及んだ。この事件は日本の教育が変質化していく上でのターニングポイントであったはずだ。小生は初対面の興野先生に少しそのことを話したところ、先生が戦前の歴史・修身・地理などの教科書を、明治初期から第二次世界大戦にいたる間のものを蒐集されており、それらを見せるので来るように言われた。
 初めて先生のご自宅に伺い、近所の「興野考古館」で先生の戦前の教科書のコレクションを見せていただいた。蒐集の動機は、先生が若い頃に、軍国主義教育の環境に育ち、世界情勢の知識に偏りがあったこと、特に戦地で多くの兵士が死んで白骨化していく様を実際に見て、「なぜ日本人はこのような悲惨な戦争に突き進んだのか」、「なぜ天皇の神格化を信じたのか」という自省に基づいていたという。教科書国定化は多くの日本人に誤った歴史観と国際感覚を与え、悲惨な戦争へ誘導した根本的原因になったと思う。
 先生は数冊の教科書をダンボール箱から選んで眺めながら、「明治の初期の教科書はこんなに多彩で自由な選択が許されていたんだよ」と言い、「このコレクションは君が持っていたほうがいい」とすべてを私に譲られた。その後、先生の宝物を私物化してはならないと思っていたところ、村田町菅生(すごう)にいた患者さんで小林やゑこさんというおばあさんが、夫のお父さんが寺子屋で使っていた教科書が自宅の物置に多量にあって、「自分はもう先が短いので、それを貰ってほしい」と頼まれた。たまたま興野先生の弟子にあたる石黒伸一朗さんという方が、村田町の「歴史みらい館」の学芸員をしていたので、彼にお願いしてすべてをそこに寄贈することができた。

 国や民族の間の紛争と教育

 人と人がたまに対立するように、国と国、あるいは民族と民族は対立し、時には戦争を起こす。指導者は戦争を遂行するのに戦地で戦う多数の若者を必要とする。その若者は国・民族のために死をいとわないほどの高い戦意を持つことが望ましい。相手の民を軽蔑し、また、自国・自民族への強い誇りも必要だ。指導者はそのような方向に情報、教育を管理する。
 鎖国し、長い間の泰平に甘んじていた江戸幕府と庶民は、来航した黒船の偉容に驚き、幕府は欧米列強の通商要求に応じることはやむを得ないと考えた。しかし「大日本史」の編纂をしていて海外事情にも詳しかった水戸藩の学者たちは欧米列強の植民地化の野望を警戒し、尊皇攘夷論を唱えた。これは基本的には正しい対応だったろうし、この思想が一部の武士階級に広まったために日本だけが欧米列強による植民地化を免れたのだと思う。正しい情報、教育、思想は必要だと思う。江戸時代には徳川将軍が絶対的な権力を持ち、天皇家は貧乏と政治的無力に甘んじていた。明治維新を経て、世界の紛争の嵐の中に出た明治政府は、日清戦争を経て、いずれせまる日露戦争や欧米列強に対抗するため、国民を求心的にまとめる存在として天皇の神格化・絶対化を必要とした。教科書疑獄事件の背景にこのような事情があったと思われる。

 死地を何度もくぐった興野先生の生き方

 興野先生はビルマで少なくとも3回、もうこれで死ぬと思ったことがあったという。その一度は、防空壕の中にいて、となりの防空壕の戦友に呼ばれて移動したところ、自分がもといた防空壕に砲弾が落ちて炸裂したとき。もう一度は、兵站病院にいて、一人で約三百人のマラリヤや腸チフスの患者を抱え、死亡診断書を毎夜、遅くまで書いていて、自分も腸チフスにかかり、高熱で意識を失ったとき。三度目は、駅で機銃掃射を受けたときだという。そして病院に多数の傷病兵が後送されてきて、作戦の失敗を感じていたところ、軍司令官は一足先に日本へ帰るというので、その最後の演説を聞き、自分らは飢餓の中、死につつある日本兵を診療し、病死者を焼き、衰弱した兵隊とともに「サルウィン河」を泳いで渡ってビルマを後にした。
 作戦のさなか、傷病兵を後送するためのルートを探す偵察に出て、ジャングルの中、猿が声をあげて、群れで移動し、多数の大きな美しい孔雀が舞うビルマの山岳地帯に、別世界のように平和に暮らす原住民とかれらの着物の模様のデザインに感心したという。またライ病患者の病院を守る白人シスターらに逢い、彼女らと語り合うというような体験もされた。先生は、24,5歳にして、殺し合いや多数の病死者、狡猾な軍上層部も戦地に止まる聖者のような人びとも、地獄も三途の川も、すでに実際に体験されたのだと思う。先生は帰国後、この世の名利に全く無頓着で、うずもれた土器から太古の人々の生活に思いを馳せて研究を続け、周囲の人々や患者さんに常に暖かく、そしてひょうひょうと接せられ、診療を続けられた。先生は全く自己宣伝をしなかった。日本科学者会議や日本ビルマ文化協会、東京民芸協会などにも所属され、診療の他、多彩な活動をされた。先生が蒐集された土器類は生前に宮城県歴史博物館に寄贈され、その中の大型のカメは資料館の一角の特別陳列コーナーにライトアップされ、「興野義一氏寄贈」と明記されて燦然たる姿を示している。私はそれを見たとき、それが先生の姿であるように感じた。
 それはさておき、先生から譲られたダンボール箱約10箱の戦前の教科書を見て、明治・大正・昭和初期の教科書の内容を実際に読むことができ、この疑獄事件を調査する基礎ができた。しかし自分ながらこの疑獄事件の核心に踏み込めたと思ったのは、「根本正伝」を書いたあと、実は最近のことである。現実には問題意識を持ったまま無為に時間を費やしてしまった。 (2012/7/5)


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加藤純二

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