「教科書疑獄事件と根本正代議士」
明治教科書疑獄事件・検証(根本正顕彰会の会報第71号に投稿、平成24年11月)
1902(明治35)年、11月のある日、東京・品川駅近くの田んぼの中に皮カバンが落ちているのを近所の人が見付け、警察署に届け出た。カバンの中には一冊の手帳があり、そこに名刺が挟まれていた。名前は山田禎三郎、大手教科書出版会社・普及社の社長であった。山田からはカバンが盗まれたという被害届が出されていた。手帳の中のメモには県知事や視学官、教育関係者の名前がズラリと書き連ねてあり、その横に細かな字で数字が書かれていた。ピンときた署員は警視庁に知らせ、警視庁は東京地方裁判所検事局に連絡した。内定捜査の末、その年の12月17日から強制捜査が始まった。12月18日からは連日、捜査状況が新聞で報道され、翌年3月から裁判が始まった(資料@)。
新聞の報道ぶりは宮城県立図書館のマイクロフィルムで確認した。教科書販売が当時の出版業に占めるウェイトは現在よりかなり大きかったであろう。庶民の金銭感覚とはケタはずれに大きい贈収賄金額であり、それを受け取った側が各県の教育界のトップで、そこが金まみれの腐敗状況であることが連日書きたてられている。注意すべきは、これらのニュースソースが捜査当局・東京地方裁判所検事局であり、連日、捜査状況が新聞各社に流し続けられたことである。新聞の読者の怒りを明らかに煽っている。
捜査と裁判の結果は以下のとおりとなった。
・召喚・検挙は約200名。
・予審152名のうち有罪112名、最終的に官吏収賄罪69名などと、小学校令施行規則違反44名が有罪となった。
・贈賄側の教科書出版会社には予審に付された者はなかった。ただ教科書の被採択権が剥奪された会社は5社。
・教科書約2000万冊以上が採択できなくなった。政府はかねて文部省で編纂中であった教科書を出版。これ以降の教科書がいわゆる国定教科書と呼ばれる。
事件の伏線
この事件は、11月のある日から内定捜査が始まり、12月17日から強制捜査が始まったというような短期の単純な事件ではない。新聞、正確には検事局が世論を激昂させている間に、事件発生報道のわずか3週後の明治36年1月9日に、教科書国定化案が閣議に提出され、4月13日には小学校令が改正され、修身、日本歴史、地理、国語の4教科について国定教科書制度が立法化した。それまで各県で自由採択制であった多種類の教科書が一挙に全国一律の内容になったのである。
この事件については、政府が周到に準備した「伏線」があったとする研究者が多い。政府とは文部省なのか、軍部か内務省なのか、もっと高いレベルの政府中枢なのか。それはさておき、いくつかの政府側が用意したと思われる伏線を列記する(資料A)。
1)文部省は明治33年4月から、修身の編集、明治35年4月から読本の編集を開始。
2)明治34年1月、省令で不正行為の処罰規定を強化。(教科書の審査・採否の贈収賄の処罰、特に不正出版社のすべての教科書の採択を「5年間採
用禁止」とした。)
3)同年同月、沢柳政太郎(文部省普通学務局長)は「既存の教科書会社が一致協同して反対する・・・国定制を企てて、失敗することがあれば、二
度目の企てはいっそう困難となる。・・・政府は非常なる決心で・・・必ず一挙に成功させなければならない」と述べた。(新聞『日本』に談話掲載)
4)同年?月、文部大臣・菊池大麓は「小学校教科書は国定制度によるほかはない。・・・多年の積弊を一掃するに於いては誠に好時期であると認め・・・
教科書国定の案を直ちに閣議に提出して同意を得た。・・・修身教科書は1904年4月までに完成するよう要望した。」(貴族院幸倶楽部で演説)
5)同年4月「涜職法」成立。(官吏・公吏以外議員・委員など公務に従事するものの汚職を罰する法律。翌年4月から、従来は勲六等、従六位以上は拘引に天皇への上奏を必要としたが、殆どを上奏不要とした。)
明治33、34年の上記の一連の動きは、当時の国民が注目するような動きではない。しかし教科書国定化への動きは着々と進んでいたのだ。多くの国民の関心は日露開戦の危機に向いていた。
児玉源太郎と川淵龍起:解けた謎
小生が根本正(しょう)代議士のことを調べていた頃、根本正のお孫さんにあたる根本正廣さんのお宅を東京に訪ねたことがある。その時、根本正代議士のことが出てくるテレビ番組があり、そのビデオテープのコピーをいただいた(資料B)。昭和57年のNHK特集「明治教科書疑獄事件ー国定化への道ー」という番組であった。当時の小学校の授業風景を宮城県の旧登米高等尋常小学校の校舎を使って再現していた。この番組の最後に、当時の帝国議会で、教科書国定化に代議士としてただ一人、反対をとなえた政治家として根本正が紹介されている。
この番組の中で小生が注目した部分は、明治35年9月18日付けの児玉源太郎が総理大臣・桂太郎に宛てた手紙で、疑獄摘発の手筈を整えることを確認するものである。手紙は国会図書館・憲政資料室に残っており、NHKの高い調査力を示している。
これは児玉源太郎が教育界の腐敗に義憤を感じていたことを示している。児玉は非常に正義感に富み、軍人として作戦に優れ、部下思いの人間味のある軍人であった。「日露もし戦わば」という世界各国の予測は「露国の圧倒的勝利」が多かった。しかし日本軍の幹部を教育したことのあるドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・メッケルだけは「日本に児玉将軍がいる限り心配はいらない。児玉は必ずロシヤを破り、勝利を勝ち取るであろう」と言わしめた軍人である。
児玉の履歴には、日露戦争前の明治31年2月末に第3師団長から台湾総督府に異動。33年12月末には陸軍大臣を兼任とある。彼は台湾にいた日本の軍人が台湾の原住民に威圧的・暴力的であったのを、彼の命令で一変させた。台湾人が親日的である由来の元はここにある(資料C)。児玉は明治35年3月、陸軍大臣を辞任、教科書疑獄事件のあと、36年7月に桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任した。一時は文部省の解体と内務省への編入を考えていたという。
一方、東京地方裁判所検事局でこの疑獄事件の捜査を指揮したのは川淵龍起検事正である。この疑獄事件について詳しい調査をしていくつもの論文を書いているのが岐阜女子大学の梶山雅史教授である(資料D)。梶山先生は川淵の子孫が持っていた川淵自身が書いた自伝を発見した。そこには、「涜職事件の潜在することを知り、之を検挙せんと志し密に着手し漸く大体を得るに逮んで其醜汚の余りに深刻なると、特に知事以下の地方官にして之に関与するものの頗る多数なるに吃驚したり。・・・自己の毀誉褒貶と利害得失を一切顧みず一身を挙げて事に此に従はんことを決意するに至れり」と記されているという。教育界の腐敗が各県だけでなく、文部省や検事局にまで及ぶ、彼の手に負いきれないほどの大きな犯罪であり、内偵を進めていたのだ。
小生の抱いていた謎は、川淵の履歴から解けた。彼はのちに請われて広島市長に就任した。『広島市議会史』に彼の履歴が記載されていた。彼は司法省法学校を卒業。検事となり、東京、大阪、京都などの裁判所に勤め、長崎控訴院検事を経て明治27年2月佐賀地方裁判所検事正となり、「30年3月台湾総督府法院検察官」、31年11月名古屋地方裁判所検事正、「34年4月東京地方裁判所検事正」、36年12月函館控訴院検事長、38年11月広島控訴院検事長となり、次いで仙台控訴院検事長に転じ、その後退職・・・とある。
児玉が台湾総督になったのが明治31年2月末である。先に述べたように、児玉は台湾で後藤新平を総督府の民政局長に任命し、全面的な信頼を寄せて台湾統治の改革を行った。この時、川淵も児玉の信任を受けて働いたのではないかと思う。
川淵も清廉潔白な人物だったようだ。明治34年4月、東京地方裁判所の検事正となった彼は、「明治33年8月の小学校令改正をうけて、翌年以降、多くの府県で教科書審査会が開催されるや、各地で教科書弊害問題が新聞、雑誌上に暴かれ、さらに裁判所にも告発されるに至っていた。東京区裁判所ならびに地方裁判所が、具体的に教科書事件を手がけるいたっており、さらに名村検事涜職事件(注:教科書検定規則違反に関して名村検事が金港堂から賄賂を受け取った事件)では、部下の引き起こした教科書事件であったゆえに、川淵検事正自ら事件の調査、処理に当たっていた。それら教科書事件の捜査が進行するに従い、さらに、放置しえぬ悪質かつ広範な官吏収賄の犯罪状況が把握されるに及んで、川淵検事正が本件の摘発に踏み切ったと考えられる(資料D)。」
小生の推定であるが捜査状況は密かに台湾総督府時代の上司であった児玉に報告されていたのではないか。児玉は一斉摘発するための条件を根回ししたと考えられる。協力したのが、文部大臣・菊池大麓、文部省局長の沢柳政太郎、最終的な確認が桂太郎首相への手紙ではないだろうか。
根本正代議士の質問書
最初の質問書は明治36年5月16日に出され、簡単なものあった。2度目の質問書は明治37年3月29に出された。以下のような内容であった(資料E)
「一、小学校読本は国民教育上、至大の影響を有するものなるを以て、広く識者の著作に求め、自由に選択せしめ、倍々進運の開展に注意すべき筈なるに、政府は之に単に二、三の官吏に編纂せしめたる、杜撰疎漏なる 読本に対し、国定教科書の名を付するは、教育の大本を誤解したるにあらずや。文面から高等師範学校と国語調査会は根本代議士に賛成していたのであろう。かなり厳しい内容の質問書であったが、世間の議論を巻き起こすには至らなかった。 なお児玉源太郎は日露戦争のあと、明治39年7月、脳出血のため急死した。彼は日本の軍事力の限界を知り、関係諸国との政治交渉を政府に指導できる稀有な陸軍首脳だったと思う。ただ児玉と川淵の教育界の腐敗の一掃が国定教科書を生み、それが軍部の台頭と共に、次第に国民を洗脳する道具となって行ったことは皮肉である。小生の推定であるが、児玉も川渕も、教科書事件における「行政と司法の結託」の事実を手紙にも手記にもどこにも書き残さなかったのだと思う。根本代議士も他の政治的活動についてと同様に、いわゆる裏話を残していない。
明治時代の教育の基本方針の変化 教科書国定化は思想統制一つである。思想統制という観点から明治時代を振り返ると、政府は明治13年4月5日、集会条例を施行し、自由民権運動を抑圧した。明治10年2月から西南の役が起こり、農民騒動が多発したことへの警戒感もあった。また13年3月、教科書取調掛を設置し、治安妨害と風俗紊乱を禁じ、教科書の適否を調査した。この年12月末には改正教育令を公布し、教育界の中央主権制を強化した。
例えば、これ以前の歴史教科書は、武烈天皇などの残酷な天皇のことや、フランス革命で皇帝らをギロチンで処刑したことなど、ありのままに記載したものもあった。歴史の国定教科書は西洋史を扱わず、天照大神から始まる神話であり、明治初期に発見された縄文遺跡や弥生遺跡のことは全くでてこない。
重要な動きは、天皇侍講・元田永孚(ながざね)が儒教主義的徳育を重視する「教学聖旨」を書き、政府首脳に渡したことで、天皇の信任が厚かった彼の主張は政府中枢に影響した。彼は明治23年10月に発布された教育勅語の起草にも加わった。彼は皇室への崇敬を国教とし、全国民を徹底的に教育することを求め、「儒教的天皇制国家」を目指した。大きな流れで捉えれば、教科書国定化もその流れの一つと考えられる。明治初期の開国と欧米文化の輸入、お雇い外国人の重用、キリスト教への寛容な態度などは、徐々に制限されていったのである。
根本正先生の最後の言葉
昭和6年9月18日、柳条湖の満鉄線路爆破が起こり、満州事変が始まった。根本正はすでに大正13年に33票差で選挙に敗れると、支持者らに「落選を感謝す」というリーフレットを配布し、政界を引退した。以後、米国との友好関係を維持するための民間交流に取り組んだ。昭和8年1月5日に死去したが、その数ヵ月前に雑誌『禁酒の日本』(昭和7年9月号)の記者の取材に対して次のように答えている。
「さあ非常時と呼ばれた時代も少なくなかったが、しかし今の非常時とは、殆んど比べものにならぬ位のものだ。何しろ今度は未曾有の重大時局だ。国民は余程しっかりせねば、近き将来に、我々は恐るべき深淵に陥らねばならぬ。」
この年の1月30日、ドイツではヒトラー内閣が成立している。根本は米国の国力を知っており、日本と米欧の政治状況を冷静に観察し、ナチスが率いるドイツと結ぶことの危険性を知っていたと思う。
ともかく、小学校から国定教科書で、神国日本、皇統無窮、皇軍不敗などを教えられ、いざ徴兵されれば上官から殴られ、海外の戦地で「こんなはずではなかった」と思いつつ、飢餓と病気の中で、敗退を続け、多くの若者が死んでいった。国内では「勝った、勝った」と大本営発表に大喜びして、最終的には敗戦を迎えた。
宮千代加藤内科医院(仙台市)のホームページ