鹿島台村長鎌田三之助の母ゑ以について

             

 平成二十五年は鎌田三之助の生誕百五十年に当たるとして、この一年にいくつかの記念事業が行われる。1月13日(日)には鎌田記念ホールにおいてオープニングセレモニーが行われた。そこではテーマ「わらじ村長と品井沼干拓《と題するパネルディスカッションや、鹿島台歴史研究会による鎌田翁関連資料の展示会があった。小生は「仙台郷土研究《誌に2回、翁の戦後の長野県安曇野における講演とその地で発行されていた小冊子への翁の寄稿文で、伝記(①、②)などに今まで掲載されていないものを紹介した。
 今回、紹介する資料は、760字×18ページの手書きガリ版刷りの小冊子である。発行者は「仙台市勾当台通二七 財団法人東北更新会 本部講師大場留治記《で、内容は大場氏が翁の講演旅行に随行したおり、翁の母親について翁から聞き出したことをまとめたもので、東北更新会の会員に配布されたものであろう。本研究会会員の故佐伯昭夫氏が古書店で見つけて小生に預けられた。この中には、三之助の思い出話として、母の日常生活や彼が進路の選択に迷った時の母の言葉などが綴られている。伝記資料には含まれていないことが多くあり、母堂ゑ以が彼に与えた影響が大きいことから、ここに抜粋して紹介する。また母の日常は幕末から明治時代の宮城県の武家や富裕な農家の主婦の生活の例としても興味深い。農家の高齢の女性の話によると、いわゆる大農の嫁の方が小農の嫁より、労働の負担や生活上の束縛は大きかったという。三之助は禁酒主義であったので、資料の全文は日本禁酒同盟のホームページに掲載してあり、引用部分は「《で示す。

1)母の出自
 出自の部分は伝記(①)にも記されているが、ここにも引用する。「刀自(母堂ゑいのこと)は姓を佐藤と称し、乙吉氏の長女である。佐藤家は茂庭家の家中で世ニ志田郡松山町に住んで居られた。厳父乙吉氏は茂庭家経営の宮城郡原の町苦竹新田開拓及(び)志田郡青生沼八軒沼干拓の際には土木事業に従事して功績のあった方で、刀自の母堂は医師を業とする今野家より出て居る。刀自は齢十五歳にして鎌田翁の厳父三治氏に嫁ぐ。資性極めて温順で寡黙実行の仁。身体も亦至極健康で、翁のお話によると毎回お産の前日又は当日まで立ち働き、七夜を過ぐれば労働に従事するを常とされたそうである。三男三女を挙げ、鎌田翁はその二男である。《
(長男が麻疹に罹り5歳で死亡し、三之助が家督を継いだ。②)

2)母の日常
「母は毎朝三時半か遅くも四時には起床しますが、洗面の後、早速仏壇に向かって般若心経を誦げ、終りて伊勢大廟と皇居とを遙拝して、ご飯の支度にかゝりました。《
「蚕なども飼ひ、綿なども購ふて糸に績み、自織の木綿、折々は養蚕の副産物たる屑繭の整理の上から絹布なども織り、染色は糸又は織り上がりたる絹布や木綿を好みの色に染め上げました。藍も作り、茶色などは胡桃の皮や榛木(ハンノキ)の皮などで染めるのでした。夜は……繅糸(くりいと)又は裁縫にいそしむのでありました。農事の方は祖父(舅)の指導により父(夫)と共に労働するのでありました。農家の一番骨の折れるのは脱穀ですが、現今の様な器械がありませんから、皆手で摺臼で脱穀しましたが、大耕作ですから一日や二日には片付きません。母はこう申して居りました。十三日続いて摺臼挽をやった。その時は両方の手にまめ(肉刺)が十三も出来て、井戸水を汲むのに釣瓶縄を手繰ることが出来なかった。近所の婦人が之を見て手伝って呉れた。今にその御恩を忘れられず、盆暮には僅かばかりの品物でも贈って上げて感謝をしたものだと、私どもや兄弟姉妹団欒の折は始終話して居りました。《
「私の宅では田地二十町歩も耕作し、雇人も定雇として六、七人も居りましたが、雇人に対しては陰日向なく、何れも公平に扱へ、南部地方(今の岩手、青森)より来て居る者などは殆ど二十年も三十年も家族同様に何の溝も堤防もなく取り扱へ、洗濯や縫針仕事等も少しも心配をかけぬ様にしてやり、彼等も亦耕作より家事一切を自分のものゝ様に働いて居りました。《
戦前の農家の生活を知っている高齢の女性によると、いわゆる大農の嫁の方が小農の嫁より、労働の負担や生活上の束縛は大きかったという。

3)母のしつけ
 子女のしつけは“我に続け主義”であったようで、「如何程立派な家屋に住んで居ても、如何に綺麗な着物を着て居ても、礼儀作法を心得なければ人の物笑ひとなるばかりか、却って身の害となる。着物はどうでも礼儀作法に優れたる人の態度は奥床しく、人も尊敬するものであるから、油断してはならぬ。何分幼少の時から躾けなければならぬ。言葉遣も同様で、外形は立派でも言葉遣ひが野卑であると人に軽蔑されるから、努めて習はなければならぬと戒しめました。五十になっても六十になっても習い事には年がない。知らぬは恥であるから必ず怠ってはならぬ。《
 翁は漢籍に詳しく、一天と号した能書家であった。次のような漢詩を作り、書として遺している(大崎市鹿島台木間塚の翁の孫渡辺睦雄氏所蔵)。『大廈高楼も以て身を寧んずるに足らず 綺羅錦繍も以て膚を暖むるに足らず 五味も以て口を喜ばすに足らず 八音も以て耳を喜ばすに足らず 鬱金香も以て鼻を喜ばすに足らず 萬金も以て心を安んずるに足らず 美貌も以て家事を託するに足らず 貧櫃に余粟ありて初めて心身緩(ゆるやか)に以て子孫永く安住の楽土とするに足らん』
 この漢詩には母堂ゑ以の教えと、天保の飢饉の経験を子孫に語り伝えた祖父玄光の影響が読み取れる。
 母堂は幼少から武士的心構えを親から教育されていたようで、「昔の人は口を守ること瓶の如しと言はれたといふ事をお祖父さんやお父さんから聞かされて居る。一度口から出したら再び引込ませることは出来ない。慎むべきは言葉であると申して居りました。……士は何時に限らず主人の命令があれば戦場に出なければならぬ。戦場に出ては敵の首を取るとばかりは限らない。自分の首を渡すことも覚悟しなければならぬ。其の場合、士風の教養なきものは、首実験の時に於いて恥を晒すものである。平常湯を以て顔を洗って居ると顔に皺が寄る。目が凹む。そうなると此の士は躾のないものと嘲弄され、之に加えるに、主人の敗戦は斯んな士を持っているからであると殿様のお顔にまで泥を塗るやうになるのものだとお祖父様やお父様から何時も聞かされたものである。決して湯などを用ゐいてはならぬと訓へられました。《
 また三之助は幼時の頃の思い出として、「母は朝に起きますと、三之助昨夜は寒かったか暖かかったかと問ふたものであります。お暖かでしたと申しますと、夫れは何方様のお陰であるかと反問するのです。 五つ六つ頃の事ですから…黙って居りますと、其れはお布団のお蔭ですぞ。お布団にお礼をなさいと言ふ。頭を下げますと、三之助やお布団へのお礼は頭を下げたのではいけません。畳んで上げるのがお礼ですと申されまして、私は布団の重さに負けて転んだりのめったりしながら畳んだことを今に記憶して居ります。……私は幼年の時は非常に物嫌ひの質で、生魚とか鳥肉とかは決して喰わなかったのです。……さういふ嫌ひなものは箸を着けずに残して置きます。私の幼年時代のお膳は箱でありまして、……食事が終れば膳の湯で、飯、汁、香肴、お数等の皿類を綺麗に洗って其の洗ひ水を戴き、後能く拭いて仕舞ったものでした。私は嫌ひな肴は盛ったまま箱の中に入れて置きました。ところが其のお数のある間は母は決して新しいものは呉れませんでした。兄弟共や客や雇人などのお膳の上を見ると頂きたいものもありましたが、然し食ひ残しがある間は決して呉れませんので、或時は目をつぶって鵜呑みにしたことも覚えて居ります。《
 彼の家は裕福であったが、母は裕福に甘えることを子どもらに許さなかった。三之助は頑健で、腕力も強く、馬術にも、勉学にも秀でていた。村長時代から謙譲な態度で人に接したが、理上尽な人物には時には腕力をふるった逸話もある。しかし腕力も体力も、信念の遂行に傾注されていった。

4)禁酒について
 翁は禁酒村長とも呼ばれたが、禁酒の動機について、「明治三十一年の九月二十六日(①によれば11月9日)に私の父が死亡致しました。その初七日目に母は私を亡父の位牌の前に呼んで言はるゝには、三之助や、今までは父上がお酒を召し上って居られたから遠慮をして居ったのであるが、此の母の生きて居る間は今日を限りに酒は飲まない様にしてもらいたい、との厳命でございました。私は、ハイ承知致しましたと確答を与えましたが、其の日から断然お酒を禁じ、今日に至るも酒は絶対に頂きません。宴会等へ出ましても私丈はお茶を以てお酒に代えて居ります《と書かれている。母堂ゑ以は夫には遠慮して言えず、当時すでに県議会議員になっていた息子三之助が大酒飲みの道を同じく歩みつつあるのを心配したのではないだろうか。酒に使う道具の一切を、土蔵にしまい込んでの文字通りの厳命であった。宴会では、先日まで大酒を飲んでいた三之助に、却っておもしろ半分に女たちに盃を持たせて運ばせる者もいた。ある時、彼は前に並べられた盃の酒を、片っ端から女たちの着物へ振りかけたので、以後、彼に酒を勧める者はいなくなったという(②)。

5)村長になって岐路に立つたび
 三之助は品井沼排水工事起工式の後、明治三十九年十一月、移民事業を興すため、メキシコに渡った。メキシコに日本人村を作ることを目的としていた。しかし宮城県知事から、反対が起こって工事が暗礁に乗り上げたと、帰国を要請された。四十一年1月に帰国した彼は、反対派を説得するなど工事を再び軌道に乗せた。そして周囲から村長就任を要請された。メキシコの日本村か鹿島台村の復興かと迷った彼に、母堂ゑ以は、移民計画はほかの人でも出来ます。けれども村の建直しは、お前でなければ出来ますまいと言われ(②)、この母堂の言葉が彼を決意させた。彼はメキシコ視察を基にした詳細な移民のための案内記(③)を出版し、メキシコ移民のことはあきらめた。
 有吊な逸話である、明治四十四年五月二十六日の品井沼排水工事の落成通水式に、父と祖父の位牌を風呂敷に入れて出かけたことも、母堂が彼に命じたことであった。宮城県知事からの石巻町長への推薦を断ったことも、母堂の強い反対のためであった。これらは伝記に書かれているので、ここでは省略する。

6)借金棒引きと寄付と無給
 鎌田家は祖父玄光の時代は松山茂庭家の下級武士であったという。明治維新のあと主に父三治の代に、開墾や金貸しをして田畑や身上を大きく増やしたと思われる。三之助は村長就任以降、それまでの洋式の朊や靴、カイゼル髯を止め、村人と同じ朊装と草鞋ばきになった。そして家にあった村人への貸し金の証文をすべて帳消しにした。品井沼の干拓と村の財政再建に取り組んだ彼は、自家の田畑などを度々村のために寄付した。村長給与は38年間無給を通した。鳴瀬川の堤防工事のため、家を2度移築したが、その度に家を小さくした。彼は多数の原稿や手紙を書いたが、役場の反古紙の裏を使っている。
 お金については「私は会計は一枚の葉書を購ふのにも母の財布より出してもらったものです。その代わり何時の幾月何所でこれ丈けの金が要るとか、また幾ら幾らの金を消費したとか、いささかも隠すことなく明瞭に報告をして支出して貰ったのでのでありました為か、どんなに要求をしても何時でも苦い顔をしたり又は拒否されたことはありませんでした《と述べている。毎日の握飯は母が自ら握って呉れたという。
 彼が五十歳の時、明治四十五年十一月二十四日、母堂ゑ以は八十一歳で死去した。三之助は母堂の墓石の脇に母堂の辞世を刻んだ石碑を建てた。
 懐しき孫子を後に行く先は 苦々を盡して極楽の里

7)講演行脚で訴えたことー節約生活と財政再建
 資料には母の和歌が他に11首書かれている。明治四十四年五月二十八日、品井沼排水工事落成の日の和歌が、
  永らへて八十路の坂の峠より 乾したる沼を見るぞ嬉しき
 品井沼の干拓を推進したのは三之助であったが、その後ろには舅玄光と夫三治の遺志を継いだ母堂ゑ以の執念があった。母堂の言いつけで三之助は国会議員もメキシコ移民も石巻町長も断念した。まず干拓を成し遂げた彼は、村人への節約と貯蓄の奨励をし、村の財政の再建に取り組んだ。長期にわたるあらゆる手段を尽くしての村財政の黒字化こそが鎌田村長の一番の業績ではないだろうか(④)。
翁は大正八、九年頃から頼まれると講演行脚をするようになった。昭和初期から、特に第二次世界大戦が泥沼に入ると、庶民は窮乏生活を強いられたが、翁の徹底した節約生活が国民の模範として称揚された。講演の演題吊は「銃後の国民の心構え《などといったものが増えるが、実際の講演内容は、彼が節約生活と村長時代の財政再建の試み、それと母堂の思い出だけで、講演行脚は敗戦後も続いた。
 現在、日本は国も地方自治体も莫大な財政赤字を抱え、それでも債券を増発し、売れる見込みのない米国の国債を買い、米国の戦争に金銭的な後方支援をしている。若い人々には子供を産んで育てる意欲や余裕はなく、国の借金のつけが今後、重くのしかかるであろう。翁と母堂ゑ以が今の日本の現状を見たら何と言うであろうか。

参考資料
①『鎌田三之助翁傳』故鎌田三之助翁頌徳会編纂・発行、昭和二十八年。(口語文複刻版、平成二十五年一月)
②『わらぢの跡』松田武四郎著、昭和十八年、京文社書店
③『北米墨西哥殖民案内』鎌田三之助著、成功雑誌社、明治四十一年
④「鹿島台村の財政再建と鎌田三之助村長《加藤純二、仙台市医師会報、平成二十年No.525


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加藤純二

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