茨城県那珂市ふるさと大使
「茨城県那珂市のふるさと大使」(以下の文章は「教育労働ネットワーク」に投稿したものです。)
数年前に那珂市の方からふるさと大使に推薦したいという電話があり、お断りした。小生ができることがあるとは思えなかったからだ。平成23年2月、新しく市長になった海野徹さんから同様の電話があり、今度は引き受けた。海野徹さんは長く「根本正顕彰会」の事務局長をやり、会長の柏村一郎先生と共にこの会の活動を続けてきた。それで海野さんの言うことには従うことにした。それに無報酬だというので、安心感があった。まずは「根本正顕彰会」について説明する。
根本正顕彰会とは 小生は医院を開業した昭和63年、内科外来にアルコール依存症が多いことに気づき、重症の患者さんと一緒に断酒会に通った。その時、「88、66運動」というパンフレットを受け取った。読んでみると、この年は「未成年者喫煙禁止法ができて88年、未成年者飲酒禁止法ができて66年であり、二つの法律を遵守しよう」というような趣旨のことが書かれていた。88年前は明治33年、66年前は大正11年(2012年からはそれぞれ112年前と90年前)である。
これらの法律は、タバコや酒の害から子どもを守るためのもので、なぜこのような「大昔」に日本の帝国議会で作られたのか不思議に思った。
図書館で調べてみると、根本正(しょう)という茨城県選出の衆議院議員が提案してできた法律と分かったが、驚いたことに未成年者飲酒禁止法案の方は法案提出19回、23年もかかってやっと成立している。帝国議会はその第1回議会から、本会議と委員会の議事録が残っていて、これを主な資料としてこの議員のことを調べて出版した。根本正代議士は水戸市と郡山市を結ぶ水郡線の敷設に尽力し、銅像が常陸太子(だいご)駅前に建っている。台風の予知のため、筑波山に高層気象台を建てた。最も大きな業績は義務教育国庫負担法を提案・成立させたことと、義務教育の普及に関係する法整備に尽くしたことであろう。
これらの調査に6年かかり、平成7年に出版した。この代議士の出身地は茨城県の水戸市の隣にある那珂市の東木倉(ひがしきのくら)という集落である。ここは根本姓が多く、根本代議士に近い親戚の子孫の方の家もある。取材させていただいたので、出来た本をお送りした。この本が当時の合併前の那珂町の議会で取り上げられた。町民が半ば忘れていて、町民以外の人によって伝記が書かれたということが一種のショックだったらしい。それが発端となって町に根本正顕彰会ができた。会長が柏村一郎先生、事務局長が今の市長・海野徹さん、会員は約100名で、皆が協力して小生が調べきれなかったことを殆どすべて調べあげ、地元の高齢者の記憶に残っていた根本正のことも聞き取り調査をして、充実した会報は60号を越えた。平成13年には生誕150周年の式典が行われた。この時には今まで満員になったことが数回しかない中央公民館のホールが満員になった。3年前には地元版の根本正伝が出版された。去年の年末に那珂市から連絡があり、1月12日の木曜日に賀詞交換会があり、その前に委嘱状を手渡したいという。それで年末年始の休診予定表に1月12日を加えて窓口に張り出した。
11日水曜日の午後、仙台を出る前に一応、鏡で自分の顔(正確には頭)を見た。少ない髪の毛だが長くてだらしなく見えた。あわてて床屋に行ってから家を出た。常磐線は地震・津波・原発事故のため宮城県わたり駅と福島県いわき駅の間が不通で、大宮市にいる姉の家に泊めて貰い、翌朝、上野を経由して朝9時に水戸駅に着いた。水戸駅の改札口には他のふるさと大使の方々がいて、一緒に迎えの車に乗り、中央公民館に行った。
ふるさと大使の任命というようなことは今、あちこちの地方自治体がやっているらしく、自治体の知名度を上げることが第一目標らしい。小生は不適任ではあると思ったが、ここまできてそんなことを言ってはいけないと、委嘱状を市長さんから受け取った。
次いで賀詞交換会があるというのでホールに入った。小生は仙台市で賀詞交換会などという会に出たことはない。200名くらいの参加者で、壇上には市の幹部、国会議員や県会議員らが並んでいる。次々とそれらの人びとの流暢な挨拶が続き、ふるさと大使の新任は小生一人ということで、紹介された。ところが司会者の紹介が長くて、挨拶で話そうと思っていたことをすべてしゃべられてしまった。正直にそう述べて、居並ぶ議員たちには失礼かなと思ったが、「今ほど立派な政治家が出て欲しいと大衆が願っている時代はないと思う。根本正代議士はそういう政治家であった」という趣旨のことを3,4分でお話した。
次いで別室でふるさと大使同士の情報交換の時間があった。(一部省略)
短い挨拶の中で触れたが、那珂市出身の幕末の学者で、藤田幽谷という人がいる。百姓の出身でありながら、大日本史を編纂する彰考館の総裁になった人で、その息子が東湖、その同僚が豊田天巧である。この人も百姓出身で彰考館総裁になった人で、根本正は東木倉を出て水戸の豊田天巧に弟子入りをしている。天巧の息子が小太郎で、水戸における天狗党と諸生党の抗争の中で暗殺された。その未亡人・芙雄(ふゆ)は藤田東湖の姪で、後に日本で幼稚園教育を始め、広めた人である。
豊田家には幕末の手紙類約千点が保管されていたが、すべてが佐賀大学の前田晃教授らによって解読され、出版された。幕末の水戸藩の様子がよりリアルに分かるようになった。(その一部は平成22年3月に出版された『豊田芙雄と草創期の幼稚園教育』という本に引用されている。)
話はそれるが、藤田東湖が作った「正気の歌」(正確には「文天祥の正気の歌に和す」)は素晴らしい漢詩だと思う。これは彼が座敷牢の中で、文天祥という明末の政治家の「正気の歌」を元に作ったものである。文天祥も清の軍に捕らえられ、この詩を獄中で作った。小生の郷土史の先生である高倉淳(きよし)先生にこのことを話したら、陸軍士官学校の同期の人で詩吟が上手な人がいるので頼んであげると、飯澤耕作氏を紹介してくれた。飯澤氏が正気の歌の詩吟をテープに録音して送って下さった。
藤田幽谷はいわゆる尊皇攘夷論を唱え始めた人である。ロシアの東洋進出や中国・清がアヘン戦争で英国に敗れて衰退したことを知り、欧米列強の野望に対抗しようとしたのだ。藤田東湖や豊田天巧、會澤正志斉といった幽谷の多くの弟子が、藩主・斉昭の元で活躍した。東湖は安政の大地震で死亡した。
正気の歌は日露戦争で旅順港閉鎖作戦で死亡した有名な広瀬中佐によって長い詩をより短くしたものが作られた。それが第二次世界大戦中に、鬼畜米英に対抗するという国家戦略にこの詩の気分が合致していたのでよく歌われた。敗戦後は逆に殆どかえりみられなくなった。(飯澤氏の歌う詩吟をCDにしたので、いずれ機会があれば多くの人に聞いてもらいたいと思う。ただしこれが好きだというと右翼思想の持ち主と誤解されるかも知れない。)
話を戻すが、那珂市からの帰りには他のふるさと大使の方々とは別れて、伝記を書いたときお世話になった根本正代議士の孫にあたる根本正広氏を水戸市にある介護マンションに訪ねて挨拶をして、上野を経由して仙台に帰った。
立派な政治家を選ぶのは有権者の政治意識のレベルが高いことが必要である。政治家の公約違反や汚職やふがいなさは、自分たち有権者のレベルの低さの反映であろう。根本正代議士が最後の選挙で金権候補に33票差で落選したとき、地元の支援者で「傘屋清水」という人が「憲政滅ぶ」と叫んで割腹自殺をはかった。根本正代議士の支援者は皆、手弁当で選挙を手伝い、13回の選挙で選挙違反者を一名も出していない。
小生が伝記を書くための調査に労力をかけ続けることができた理由は、この政治家が無私の人だったからである。また、藤田幽谷・東湖に小生が惹かれる理由は、日本が今、米国の植民地と同然になってしまっているからである。(2012/1/22)
宮千代加藤内科医院(仙台市)のホームページ