「女川飯田口説・詳説」(2)「事件の概要」

(1)事件と資料 (3)南部領への逃亡を辿る (4)川井村小国と小国堰を訪れる (5)捕縛、取り調べ、処刑、処刑 (6)禄音された口説と歌詞

≪お説の出自≫

 於節の実家である大塚家は、共に御一族という飯田家と同格の家柄である。大塚家は西磐井郡西永井(旧花泉町、現一関市))にあり、永井村史によると、於節は伊達家21代藩 主吉村(政宗を初代とすると、第5代藩主)の御落胤といわれる。牡鹿半島で鹿狩りをした際に富田家から出された土地の女に生ませたもので、吉村47歳で、享保12年のときであるという。

 於節は伊達家の永代着座、二番座という名門のこの富田家で養育されたという。富田家は桃生郡小野二千石の領主であった。嫁入り前に大塚館の領主伊豆幸頼の妹となり、飯田能登に嫁いだ。於節は文武、手芸万般にすぐれており、とくに薙刀は屈指の使い手であったという。

 

≪『仙台犯科帳』(高倉淳著)より≫

 第二部 犯科帳 第一話 女川飯田口説 −お節・喜右衛門の道行−

 毎年六月十九日に、仙台藩のお仕置場であった七北田刑場跡を訪れると、町内の方々が 刑場跡を掃き清め、花を供え線香を手向けておられる。お話を聞くと「今日はお節さんの 供養の日です」と話る。そのお節さんが刑場の露と消えたのが宝暦二年(1752)である。

 刑場跡に建つお節地蔵には、明和六年(1769)と刻まれているので、十七回忌にでも建 てられたものであろうか。このお地蔵さんは、もと念仏堂から仕置場にあがる坂の上にあ ったという。
 また新寺小路の善導寺には「松葉曼陀羅」といわれる阿弥陀如来像が掛けられている。これはお節が牢屋の中で自らの帯を解きほぐして、松の葉で刺繍したものと伝えられている。事件が起こった場所は、桃生郡の女川村(現河北町)に在郷屋 敷を持つ飯田能登邸である。能登道親の先祖は、伊達政宗の曾 祖父時宗に「一族」として仕えた。道親はその後裔で『伊達世臣家譜』によると、家格は「太刀上(たちあげ)の部」に記され、石高は四五〇石であった。さらに同家譜には、寛延二年(1749)八月の項に「歩(かち) 小姓頭に転じ、後病免、宝暦二年四月暴死」とある。この「後病免」について「女川口説き」の表現 を借りれば「かねて能登様深色好きで奉公務めは気詰めとありて病気つくって御願い上げ て急ぎ女川在郷なさる」である。「口説き」を『広辞苑』でひくと「民謡など叙事的な長文 の歌、単純な節で軽快なものが多い」とある。斎藤報恩会蔵の「奥州桃生郡女川くどき」 は嘉永年間(1848〜54)の成立で、五段六十七丁に及ぶ写本である。この「飯田口説」 によって事件の概要を追いかけてみよう。

 能登の妻はお節といい、年は二十六(口説では二十二)の女盛りである。能登は若い娘をそ ばにはべらせて遊興の限りを尽くしていた。夫に無視されたお節は「いらぬ花よと振り捨 てられて無念涙で月日を送る」という日を過ごしていた。このようなときに、能登の家臣 の日塔喜右衛門とお節が懇ろとなり、「能登妻と兼ねて密通しおり、主人を蔑(ないがし)ろにするの状、 日を追って長じ」という有り様となった。

 事件は宝暦二年四月八日(口説)、女川村の鎮 守お薬師様の祭礼の日に起こった。祭りの酒に疲れまどろんでいる能登のそばを喜右衛門 が通る。能登は「さてもあやしや何者なるぞ」 と能登は喜右衛門を追い、刀を抜いて立ち合 いとなった。「口説」ではお節が「母の譲りの 薙刀出して」と喜右衛門に助太刀をし、能登は切り伏せられた。主殺し・密通は天下の大 罪である。我に返って事の重大さを覚った二人は、山を越え三陸海岸沿いに南部領へ落ち ていく。高田から釜石へと必死の逃避行を続 けたが、町同心の二兵衛及び三右衛門に探索され、召し捕られて片平丁の牢屋に入れられ た。

 この「飯田口説」とは別に「飯田能登横死候につき御検使仰せ付けられ相勤め候一巻」  (「伊達氏史料」)という検使役人蜂谷六左衛門 の検使の結果を詳細に記した報告書がある。

 宝暦二年四月十四日の夜中に蜂谷穴左衛門は奉行から呼び出され、飯田能登殺害の検使 が命ぜられた。明け方に出発し、女川には真夜中に到着し、早速取り調べにかかった。報 告書の中から飯田能登殺害の現場の状況を抄録してみよう。

 事件は女川村鎮守のお薬師さんのお祭りの前日四月七日に起こっている。七日の夜八ツ 半時というから、今の午前二時半から三時頃であろう。能登は書院を出て、庭からくぐり 戸を出たところ、そこに喜右衛門がいた。能登と喜右衛門はここで切り結び、能登は額や 鬢(びん)ぎわ・月代(さかやき)ぎわに深手を受け、右の指を切り落とされ、手に持った脇指をおとした。能 登は替わる刀をとりに、くぐり戸を抜け寝間に向かった。喜右衛門は能登を追いかけ庭で 切りかかる。能登は左手に持った脇指の鞘で防いだが、手首を切り落とされた。能登は必 死に寝間に駆け入ろうとする所を、喜右衛門は後ろから切り付けた。検使報告書に「左の 肩の傷五寸余、至って深手」「右肩の傷、二寸五分程深さ三分程」とあるのは、この時の傷 であろう。寝間に漸く辿り着いた能登は倒れて意識不明となった。三時間ほどたった8日 の明け六ツ(朝六時頃)に息をひきとった。なお江戸時代の時刻は今と違って、明け六ツか ら一日が始まる。

 以上が飯田能登横死の場面であるが、この事件について能登の親類や家老が取り調べを 受けている。その一つに能登の妻と喜右衛門の関係が問いただされている。いずれも異口 同音に「一向に心付これなく、噂などありません」と答えている。二つめは、お上への報告 遅延の理由については、両人の行方捜索に全力をあげていたと弁解しながら「申しひらきござなく候」と答えている。

 この日塔喜右衛門の「主殺し」「不義密通」「出奔」という重罪に対して「飯田能登家来 凡下に落とされ」「札の辻に三日晒しの上、竹鋸にてひき、士丁市中引き晒し、七北田にお いて傑」の刑が言い渡された。お節は『仙台藩刑罰記』によると「凡下に落とされ」「七北 田において傑」となっており、「市中引廻し」という付加刑はなかったようである。従って「女川口説き」の「おせつ様をば牢屋を出し、罪の(次第)をこまかに書いて、城下内なる 十八丁を、屋敷町々残らずさらし」は口説としてのおもしろさの表現であろう。

 この外に日塔喜右衛門の親敬意は凡下に落とされ「田代浜へ流罪」、敬意の妻よねは 「奴」、娘は「死亡によって御構なし」である。また能登の家老二人は「告達遅滞、落人尋 候手段緩慢、家老役召放閉門」、家来四名は「事後の処置不適当、蟄居」を命ぜられている。

 喜右衛門の父敬意の「流罪」、敬意の妻の「奴」の刑は縁坐ではない。敬意はもと家老であ り、喜右衛門が主人能登妻とかねて密通していて、主人を蔑ろにすることが日増に多くな っていたのを知っており、この事件を未然に防がなかったのは、父母として不届きである というのが、判決の理由である(「雑録」石巻図書館蔵)。このような場合、飯田家は家跡没収 となるのであるが、一族という家柄のためか、特別の計らいで、半地を妾腹の子左門に嗣 がせ、家柄は「一族」から「一番座御盃頂戴」に格下げされた。

 口説の伝承者千百恒雄氏の語る女川口説の文言を左記しておこう(『みやぎの民謡』)。宮城 県図書館の郷土室を訪ねれば聞くことができる。なお現在も保存会(会長武山武志)があり伝 承されており、ほかに現代風にアレンジされたものも発表されている。

  ハアー色は思案の外とは云えど 昔故実を尋ねてみれば 鳥の教えし妹背の道よ
  内裏上腸も御公家も武家も 恋は誠の道とは定め 仁義五常も恋より起る
  色で丸めし世の中なれば 色と恋とは是非なきものよ 高き賤しい上下はなきよ
  故を如何にと尋ねて聞けば 国は奥州仙台桃生の郡 村を申せば北女川よ
  四十五貫の知行取りで 飯田能登とて名高き人よ

 平成六年十一月四日に、飯田能登の二百四十二年忌の供養祭が地元北上町江林寺で行わ れた。この供養祭には、恩讐を越えて飯田家および当時の家臣の後裔の人たち、「女川口説」 保存会などのメンバーなど約一〇〇人ほどが参列し、飯田能登・妻お節・用人日塔喜右衛 門の冥福を祈った。

 

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