「女川飯田口説・詳説」(3)「南部領への逃亡を辿る」

(1)事件と資料 (2)事件の概要 (4)川井村小国と小国堰を訪れる (5)捕縛、取り調べ、処刑 (6)禄音された口説と歌詞

≪翁倉山を越えて志津川へ≫

 上の写真は女川集落の中にある江林寺の境内にある看板の左半分で、二人が逃走した経路が書かれています。
 斬り合いが終わり、二人は逃走を決意します。夜は明けかかっており、二人ともそれぞれの屋敷、部屋に荷物を取りに行くこともできません。人目が多い街道を歩く訳にはいかず、そのまま屋敷の裏から山道へ入り、翁庫山を越えることにしました。山の向こうに下りて、少し北へ行けば、志津川、その先が気仙沼。さらに(陸前)高田まで行けば南部領は近い。それに僅かだが知人もいる。突発的に起こったこととはいえ、「主殺し」への刑罰が如何に厳しいか、そして刑罰は家族、親戚、家臣にも及ぶことが分かった上での逃走でした。

 以下、『女川飯田口説考』(西田耕三編著、宮城地域史学協議会発行、1994)の佐藤正助氏「女川口説と志津川周辺」の一部をそのまま引用します。
 「…お節、喜右エ門はなかなか志津川に縁が深いようである。翁倉山を下りたお節、 喜右エ門は、水戸辺在の河東田屋敷を見下ろす笹原に一夜枚潜んでいたらしい。里人はそこを飯 田窪と呼び、今でも怨念で木が生えないと伝えている。…さらに水戸辺や折立はおろか清水川や細浦等にまでお節の形見の櫛、笄(こうがい)というものが残って おり、それで咽喉をさすれば魚の骨が除かれるとして珍重したという。路銀に窮したお節が交 換したものだとか、宿を借りたお礼に置いていったものだとかまことしやかに伝えられており、 極端には、立ち寄る筈もない入谷に泊まった話が残されている。現在の志津川小学校の新校舎 への入り口で、新井田側へ下りる鞍部にちょっとした平場があるが、そこはいつも短い草しか 生えていないが、お節が泣きながら休んだ所で、その怨念のため草木が生えなくなった等の伝 説も残っている。…」

≪潜伏場所は高田か、川井村小国か?≫

 以下、同じ本の中の平山賢治氏「於節・喜右衛門悲恋の路行き」の一部をそのまま引用します。
「…喜右衛門はもはやこれまでと死を決意するが、於節は遁れられるだけ逃げようと気仙郡高田町の藤七親分を頼って苦しい逃避行が始まる。
 喜右衛門の刀は血が付いたので、殿様の螺鈿入りの重代物の刀を奪ってきたのであったが、 途中の藪で鞘を落としてしまう。昼は人目を忍んで隠れ、慣れぬ夜道を踏みまよい、路銀か尽 きれば櫛・簪・笄などを売りながら、口説はここで名所古跡をたっぶりと聴かせてくれる。
 ようやく高田町の藤七宅にたどりつき(於節の育った同郷の人といわれる)一部始終をうちあけれ ば、領内は危ないからと、南部釜石の仁助親分のところに舟越ししてくれた。追っ手がきても 明かさないようにたのみこんだのだったが…。
 釜石の仁助親分は人情の厚い人で、若い二人を不憫に思い身内の者にも堅く口止めして二階 に匿って、女房共々親身になって世話してくれた。於節は束の間の幸せを得た気持ちで、かい がいしく仕立物などして働き、喜右衛門も子供達に手習いを教えたりしていた。…」


 左の表は同じく『女川飯田口説考』の中の加藤俊夫氏『実説「女川口説」』の中にある表です。実際の口説では、二人は南部領の釜石で捕縛されたことになっていますが、ここでは釜石からさらに山奥に入った川井村の小国というところで捕まったとしています。
 また平山氏の文では、二人が釜石の仁助親分のところで、於節は仕立物、喜右衛門は手習いを教えて過ごしたという。しかし 釜石の更に奧に川井村があり、その小国という集落で隠れ、捕まったという説があり、そこには喜右衛門が指導して作ったという堰 が残っています。

 

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