「女川飯田口説・詳説」(4)「川井村小国と小国堰を訪ねる」へ

(1)事件と資料 (2)事件の概要 (3)南部領への逃亡を辿る (5)捕縛、取り調べ、処刑 (6)禄音された口説と歌詞

≪川井村小国≫

 郷土史の専門家で伊達領の新田開発、用水・潜穴<の研究を本にした高倉淳先生とともに小国町の川井堰を訪ねました。左は小国集落を中心とした川井村周辺の地図です。西に早池峰山、南西には遠野市、東に宮古市、南東に釜石市があります。仙台市から高速道路で水沢インターへ行き、そこから江刺市を経て盛街道を走ると遠野市に着きます。この盛街道はお節と喜右衛門が捕縛されて仙台に護送されたときに通ったと考えられる古い街道です。遠野から小国は山の中、北方へ山の中を走り、峠を越えると小国です。
 遠野から南東に海の方へ向かえば釜石ですが、小国は釜石からも遠野からもかなり離れた山の中です。釜石から直線距離で40キロメートルほどですが、山道ですからその倍くらいの距離があるでしょう。小国まで走ってみて、彼ら二人が本当に逃げ切って隠れ住もうとしたのだと思いました。下左の動画は川の上流にある堰です。説明版は町の中央を走る道路沿いにあり、そこから川沿いに昇ると堰があり、現在はコンクリートで作られています。昔は川の落差が比較的大きい所のやや上流で川に石を積み、水を溜め、脇に水路を造りました。動画の途中で見えるように、水路には水位を調節する木製の横板を取り付けますが、これは水が過剰なときに余分な水を逃がすためのものです。下右の写真はその堰から引いた水路で、現在も使われています。

喜衛門堰

    

 『水を引いた男 日塔喜右衛門、悲運の生涯』(横道廣吉著、1999年)という本があります。これは岩手県川井村で語り継がれた伝説を参考にして作られたものです。
 この本によると、二人は伊達藩にゆかりのある大円寺の和尚に、遠縁の者として置いてもらったという。喜右衛門は「女川村で金の採掘と、金の精錬に必要な水車に引く水路の保持に関わっており、測量や治水なら役に立てる」と言い、当時、この地で進んでいたという開田作業に加わった。そこで和尚と村人たちに世話になったお礼にと、堰を作ったという。喜右衛門は寺と代官配下の浦津氏に交互に出入りし、小国川の上流に堰を作り始め、次第に村人たちが協力するようになり、八月にはほぼ完成した。
 次に水路を延ばしていたところ、二人に、浦津氏から呼び出しがあり、伊達藩の罪人捜しが懸賞金つきで行われているという噂を話した。喜右衛門は「自分がその罪人であること、成敗して首を差し出してほしい」と答えた。お節は「本当の罪人は自分であり、喜右衛門には罪はない」と言った。二人の話を聞いた和尚と浦津氏は、早池峰山の山奥の岩屋の祠に隠れるように勧めた。しかし喜右衛門は、それ以降も村人の求めに応じて水路の延長工事に出かけていた。ある日、ついに伊達藩の役人二人が現れた。二人は仙台出発時、殿様から「喜右衛門はともかく、お節は伊達の血を引く直系の者。二人とも里の者達にたいそう尽くしているとの噂もある。「四角い国を丸く見て探すこと」左様心得て置くように」と言われてきた。しかしこの時、二人共逃げることなく、縄を受けたという。
 これ以降、二人の姿はこの地から消えた。堰と水路はこれら伝承とともに今も流れ続けている。


 

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