「女川飯田口説(くどき)・詳説」(1)事件と資料
(2)事件の概要 (3)南部領への逃亡を辿る (4)川井村小国と小国堰を訪れる (5)捕縛、取り調べ、処刑 (6)禄音された口説と歌詞
≪事件が起こった場所≫
左の地図は宮城県の石巻市の北北東約20キロにある旧北上町の女川地区を中心とした地図です。ここの女川地区は石巻市の東方にある女川町(漁港)とは違う旧河北町の中の小さな集落です。右の地図は旧北上町女川地区を中心にした拡大地図。石巻地方では人気が高い追分け温泉が山の中にあり、ここから流れる追分沢にそって南に下ると女川地区があり、追分沢はすぐ北上川に合流します。
≪事件の発端≫
1752年(宝歴2年)4月8日、村の薬師神社で春祭りでした。その前夜、この村の領主・飯田能登道親が妻のお節と家臣の日塔喜右衛門に斬り殺されるという当時としては驚天動地の大事件が起こりました。
≪事件の結末≫
主殺しの犯人と推定される二人、お節と喜右衛門は南部領の山の中の小さな小国村(現川井町)というところで捕らえられ、お節が11月3日、日塔喜右衛門が6日、仙台の七北田処刑場で処刑されました。事件発生からお説の処刑まで205日。捕縛されて仙台に護送されるのに20日、牢獄に50日(これは口説の歌詞による)というので、135日、約4ヶ月半の間、逃亡と隠棲の生活が続いたことになります。この期間、伊達藩では検死や捕縛のための追跡をしています。この一部始終は女川飯田口説(くどき)として長らくこの地方を中心に宮城県内で歌い次がれたそうです。この事件の特殊性は、事件が当時としてはセンセイショナルであったことの他に、逃亡地に伝わる伝承の他に、検死記録、追跡に預かった人々への報奨金の記録、判決記録などの古文書が残っていたり、発見されたりしたことです。また口説には脚色された部分や古文書との食い違いもいくつか存在し、(小生には)関心を抱かずにはいられない事件です。
≪飯田屋敷と領主・飯田能登≫
上左の写真は今に残る昔の飯田屋敷跡の石垣と、そばに立つ標柱です。この石垣の上には集会所があったそうで、その奥には当時飯田家の家来であった上野家の家が建ち、家の入り口前の空き地に看板があります。それが上右の写真です。その一部、地図の部分を拡大したのが下の写真です。
≪3人の主要人物≫
事件の主な3人の関係者について、1994年発行『ダ・ダ・スコ』27号の第2章からそのまま引用します。
「さて、この「飯田口説」に登場する主役はどんな人間像なのか紹介しよう。まず中心人物の飯田能登道親は、宮城
県桃生郡女川村(現北上町女川)に知行高わずか45貫文(約四五〇石)の小領主であるが、伊達本家との血縁の故をもっ
て「御一族」の格式をもつ家柄であった。伊達家の近習(主君のそぱ近くに奉仕する役)や小姓頭を勤めたが、病気のため免ぜられ女川領主に転じたというが、実は色好みの我儘育ちで出世せず左遷されたというのが実情のようだ,
能登には才気煥発な妻「於節」がいたが、側女の「おりえ」と「おつよ」を両手に寵愛し、酒色におぼれ毎日怠惰な生
活を送っていたという。小禄ながら遊びに興じえたのは、近くに金山があってその余禄があったからともいわれている。
飯田能登の妻於節は、人間の品格や教養の面で夫の能登とは大きな違いがあったという。文武、手芸万般に優れておりとくに薙刀は屈指の使い手であった。西磐井郡西永井(現花泉町)の大塚館の領主伊豆幸頼の妹として嫁いでいる。大塚家も小姓頭を勤めた伊達御一族であり、その意味では能登夫妻は同格の家柄であったわけである。
もう一人の人物 日塔喜石ェ門は、飯田家の用人であり、すでに妻子をもつ身であった。日塔一族には家老を勤めてい
たものもおり、また喜右ェ門は領主の近くに居をかまえ勤めていた。領主の行状を目のあたりにして、於節に同情したの
がこの事件の発端と考えられている。」 ≪女川飯田口説・引用関連資料≫ 宮千代加藤内科医院(仙台市)のホームページ
A『仙台犯科帳』高倉淳著、今野印刷、平成7年
B『女川飯田口説考』西田耕三編著、宮城地域史学協議会発行、1994年
C『北上川下流地方歴史の夜話』紫桃正隆著、宝文堂出版販売、昭和57年
D『水を引いた男』横道廣吉編著、杜陵高速印刷、1999年
E『得生山善導寺の由来』善導寺小住・山村正樹、平成元年、1999年