「女川飯田口説・詳説」(6)「録音された口説と歌詞」

(1)事件と資料 (2)事件の概要 (3)南部領への逃亡を辿る (4)川井村小国と小国堰を訪ねる (5)捕縛、取り調べ、処刑

≪ただ一人の口説の伝承者が歌う≫

    この口説を録音したCDは宮城県図書館にあります。
   当時、消えつつあった県内各地の多数の民謡などと一緒に
   編集したためでしょう、口説の冒頭の一節しか収められていません。

(私注)口説の最後の部分が上です。石高を半分に減らされたものの飯田家の存続が計られ、長い物語は「君のめぐみはありがたや」で終わっています。口説全体は、お節と喜右衛門への同情、飯田能登への批判に貫かれながら、最後に藩主のお恵みで終わるあたりに、当時の身分制度の束縛の強さを感じます。こう結ばねば、お上の目があって、口説は伝承できなかったのではないでしょうか。

 それはさておき、名君と言われる五代藩主吉村は自身が「牡鹿半島で鹿狩りをしたとき、土地の賤女に情をかけて生ませたのが於節で、桃生郡小野の城主富田氏が彼女を養育し、後に大塚家に」養妹となった女性と言われ(資料B)ますから、六代藩主宗村は父吉村の実の娘の処刑を止められなかったことになります。(小生の間違いで、処刑の時の藩主は六代藩主でした。)藩主といえども、封建社会を維持するには、勝手なことは許されなかったのかも知れません。(吉村は品井沼干拓が完成した時、つまり元禄潜穴完成の祝いの日に、大雨のため落盤事故が起き、工事責任者数人が切腹したのですが、それを止めませんでした。)

 この事件に関する直接的資料である「四月十七日 飯田能登検死・・・一巻」という古文書は宮城県図書館のマイクロフィルムにあります。これには能登の体にあった刀の傷跡が克明に記されています。これを法医学的に分析すれば、どのような斬り合いが行われたかが推定できます。(多分、誰かがすでに検討しているかも知れませんが、)いずれこの古文書に取り組んでみたいと思います。また逃亡に際して、二人が藩境を舟で越えたか、歩いて越えたか、また、捕縛地が釜石であったのか、小国であったのか、その日時はいつか、口説、研究書、古文書に食い違いがあります。逃亡の各地には確実性の高い遺留品や伝承があり、これらもいずれ検討して見たいと思います。(2010/09/25)

 

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