「女川飯田口説・詳説」(5)「捕縛、取り調べ、処刑」

(1)事件と資料 (2)事件の概要 (3)南部領への逃亡を辿る (4)川井村小国と小国堰を訪ねる (6)禄音された口説と歌詞

≪追跡≫

 平山氏によると、「仙台では、重罪人探索のため、腕に覚えの御町同心二人、御小人三人の都合五人を選び追跡させた。ほどなく飯田家の家紋の入った鞘を拾ったとのうわさを聞き、櫛・算なども発見され、 落ち行く先は南部か気仙と見当がつけられた。道々検断・目明・乞食頭などを手下に使い、本 吉、気仙と北上して、藤七を責めた。初めは於節との約束を守って、知らぬ存ぜぬと言い張っ ていたものの、庇いだてすると同罪だぞと威嚇され、ついに釜石に匿ったことを自白させられ てしまう。この時の褒賞金が吉田大肝人文書の「八十四番」である。ほどなく、捕吏達が釜石 の仁助方に踏み込んだのが五月十九日午の下刻(午後一時頃)。事件が発生したのが宝暦二年四月 七日といわれるから、約1ヵ月のスピード逮捕である。(注:検死が4月14日で、それが仙台に報告されてから追跡が始まった。)
 口説は二人を仙台の御評定所へ護送する下りに入る。途中の路すがらの観光PRも忘れな い。仙台に近づくことは、刻一刻と死に近づくことである。特に喜右衛門には晒し者としての 竹鋸挽の刑が待ち構えている。役人とて人の子、於節の切なる願いにより、一夜こっそりと屏 風で囲い喜右衛門と通わせて見ぬふりをする下りもある。…」(下右の写真を除いた図4枚は、高倉先生の『仙台藩犯科帳』からの転載で『徳川幕府刑事図譜本編』にあるもの。)

≪処刑≫




 左の写真は現在、善導寺に保存されている「松葉曼荼羅」です。これについては『女川飯田口説考』 の資料の中に以下のように書かれています。

 「…両人とも南部領に走ったが捕らわれ、重罪を犯 したことにより死罪ときまり久しく牢に投じ置かれていたが、牢舎生活中自分の犯した罪を悔 い来世に於いて幾分でも罪を償おうと自分の帯を解き枯松葉を針の代わりに使用し刻苦して阿 弥陀如来の尊像を縫い現し、同年十一月三日七北田の刑場で処刑執行の前、市中引き廻し途中、 東九番丁遍照寺門前の閻魔堂に投げ込んだものと言い伝えられる。
 長さ三尺幅一尺余の絹地に茶の萠黄色の絹糸で阿弥陀如来の立像を刺繍したもので、光背が 円形、蓮座に乗り肉髻のある螺髪で袈裟をかけ手を来迎印に結んだ姿である。  せつの牢生活期間は約五ヵ月(注:口説では50日)、その間丹念に苦心して縫ったものと考えられる。現在の「松葉曼陀羅」は軸物に表装されている。…」

 

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